悪魔は夜にやってくる。



全くもって、普段の自分らしからぬ行動だとはわかっていた。

初めて任務をこなしたあの時から、己の得意分野は、冷静に場を見極める理性的な頭のはずで、
この2年、先輩の祓魔師達からもそれなりの信頼を得てきたと自負している。
だというのに、まったく、情けない話だ。
あの存在を前にすると、今まで積み上げてきたものがガラガラと崩れ、
昔の、弱く幼かった頃の自分が露呈する。
憧れだった、兄。
いつだって敵わない、無鉄砲なほどの行動力。けれど、危機的な状況すら、持ち前の明るさと機転で切り抜けるその姿が、
弟である雪男の目標だった。そして、それは今でも同じで。
どんなに努力しても、追いつくことの出来ない天性の差が、双子である二人を隔てていた。

だから、許せなかったのだ。
相変わらずの、後先を考えず飛び出す性格。これが、人間同士の範疇ならばまだいい。
けれど、覚醒した彼の力は強すぎた。
悪魔たちはこぞって彼を手に入れようと画策し、正十字騎士団は危険人物と見なしながらも、
利用することしか考えていないという事実を前に、雪男は苦しんだ。
藤本神父の庇護の元、家族のように過ごしてきた平和な日々。
いつか来ると知っていながら、本気で雪男は願ってきた。このまま、悪魔にも狙われず、その力を騎士団に利用されないよう、
ずっと守ってやりたいと、そう誓って今まで必死に訓練を受けてきた。だというのに、
やはり彼は、自分の手には負えなかった。
それどころか、守るどころか逆に助けられていた。まんまと敵の術中にハマってしまった自分に背を向け、
うつくしい青い炎を纏って駆け出していた。その姿は、まるで―――。

「・・・僕は、無力だ・・・」

思わず口にしてしまって、慌てて唇を噛み締めた。
いけない、こんなことでは。
悪魔が、心の隙間を狙って入り込むことくらい、嫌という程知っている。
必死に取り繕って、その場を離れた。
兄の顔は、当分見たくなかった。見れば、きっと崩れてしまうだろうから。もうこれ以上、自分の弱さを思い知らされるのは真っ平。
何事もなかったように礼を言って、そうして早々に帰路についた。
今日はもう、何も考えず眠ってしまいたかった。
現実から目を逸らそうとしている自分にすら反吐が出る。けれど、今の雪男には、
逃げることしかできなかったのだ。





だが、そういう夜にこそ、―――悪魔は忍び込む。




(・・・そう、)
          (お前は、無力だ。)



「っ・・・」

夢の中、愛しい存在の姿をした悪魔は、口の端を歪めてそう告げた。
いつもならば、咄嗟に引き金を引き、奴らが声を発する余裕すら与えないくらい銃弾の雨を降らせるはずが、
今は金縛りにあったように、自分は動けずにいる。耳を塞ごうとしても、沁み込んでいく残酷な言葉。





(お前が一番わかっているはずだ。お前の兄が、お前の手に負えるような存在ではないことを)





だが、そうだ、と認めるわけにはいかない。
悪魔の言葉は常に真実を突いて来る。人間が抗うにはとてつもなく強い精神が必要で、
だから雪男は、これ以上耳を傾けないよう必死に拳を握り締めたが、
それでも太い槍に突かれたように、鳩尾のあたりが痛んだ。
唇をきつく噛み締め、悪魔を睨みつける。
その姿は、生意気な兄そのもので、
けれど雪男は激しい嫌悪感を覚えた。あれは兄じゃない。
同じ悪魔でも、どうしてこうも違うのか。
大悪魔の血を引きながら、あれほど人間味のある心の持ち主である燐は、
幼い頃から悪魔に振り回されてきた雪男にとって唯一大切な存在であり、守りたい存在だった。
・・・そう、守りたかったのだ。





(守りたかった?)
           (いったい、何をだ?)






揶揄するように薄笑いを浮かべる燐の姿をした悪魔に挑発されているのも理解しているのに、
何故、自分はどうすることも出来ず、ただ突っ立っているだけなのだろう。
おかげで、突き刺さる悪魔の声音が、ずっと抑え続けてきた雪男の心の奥底の澱をずるずると引き摺り出していく。
自分すら目を背けていたはずの醜い感情。誰にも言えない、隠し通さねばならないはずの感情を前に、
いよいよ雪男の精神も限界だ。
兄の姿をしたその悪魔は、ニヤリと口の端を歪め、そうして
本物の彼が見たら吐き気を覚えるほどに、妖艶に笑ってみせた。誘うように腕が伸ばされる。
凍りついたように動けないでいる雪男の首にしなやかに絡み付いて、
そうして濡れたような朱色の唇から齎される、甘い誘惑の声音。

「っ・・・や、めろ・・・!」
『欲しいんだろう?―――知っているぞ、お前が、』
「っく、言うな・・・」
『実の兄に焦がれ、幾度となくその身に劣情を宿しては、そうやって頑なに自分を否定してきたこと。可哀想な弟よ』

抵抗など一切できないまま、兄の顔をした悪魔は顔を寄せてくる。
首を振って逃れようとしたが、背後に回された腕に頭を抱え込まれ、そうして片方の手は顎を支え、そうして親指で愛おしげに唇に触れてくる。そして、殊更にゆっくりと重ねられる唇。
雪男は、必死に目を閉じた。
見てはいけない。見てしまえば、いよいよ自分の理性は崩れてしまうだろう。
ましてや、相手は姿かたちだけを真似た悪魔。
堕ちるわけにはいかない。
自分が悪魔の誘惑に負けてしまえば、誰が兄を守るというのだろう?
それこそ、あのお人良しの兄は、飼い殺しにされてしまう。
誰かが、彼を止めなければいけないのだ。誰か―――そう、自分が。

雪男の唇をひとしきり味わった悪魔は、唇を離すと、その唇よりも紅い舌でぺろりと己の唇を舐め、
そうしてさも楽しそうにニタリと嗤う。おぞましい。だというのに、
情けない事に、愛おしい兄の姿を前に、その色香にぞくりと背筋が震える。
必死に彼の腕の中から逃れようと、両手に意識を集中させた。これが現実ではなく、己の夢に入り込んだ悪魔のせいならば、
かならず突破口があるはずだ。いつも背に背負っている二丁拳銃を思い描いた。その間にも、
するりと腕を、そして身体を絡ませてくる悪魔。
耳に、吐息が触れるほどまで唇を近づけて、そうして勝ち誇ったように囁かれる科白。


(お前の本当に守りたいものは、大切な兄なんかではない)

「!!」

(ただの、お前自身のエゴだ。
 自分だけの兄を奪われるのが嫌だという、ただのガキの我侭を押し付けているだけだろう?)

「違う・・・」

違う、と必死に首を振りながらも、雪男はもう、自分自身を騙し通すことはできなかった。
悪魔の言葉は、常に真実で。どうしようもない。本当に欲しいのは、たった一つ、兄の存在だけ。
要するに、ただの嫉妬なのだ。
兄が覚醒し、自分だけの兄ではなくなることが、許せなかった。
兄の力は、悪魔にも、正十字騎士団にとっても稀有な存在だ。
きっと、いや、必ず、奴等は兄を利用しようと画策し、そうして多くの手を伸ばしてくるだろう。
そうして、彼の心と運命を惑わすのが、嫌だった。
自分の声すら、彼を動かせないのに。
どんなに心の底から叫んでも、兄が自分だけのものになるはずがなかったから、尚更。

『だが、もう案ずることはない。我が力を貸してやる。我の手を取れ』
「嫌だ・・・」
『そして、恋焦がれたお前の兄を、お前だけのものにするがいい。我は歓迎するぞ。―――魔王の子らよ』
「っは、」

その言葉を聞いた瞬間、雪男は咄嗟に這い上がる嫌悪感に、思わず足で蹴り飛ばした。
バネのようにしなやかに身体をくねらせ、倒れることなくゆらりと体勢を戻そうとする悪魔に、
今度こそ雪男は両腕を向ける。その手には、彼の愛用している銃が握られている。
どんなに甘い言葉をかけられたところで、所詮、相手は悪魔だ。
結局、目的は変わらない。
欲しいのは、魔王の息子である燐だけなのだ。
自分を誘惑し、けしかけて、燐を油断させて虚無界へ連れ去り、サタンの前に差し出す―――

「・・・お前たちになんて、兄さんは渡さない!」
『っぐ・・・』

聖銀の弾に、御印の彫り込まれた拳銃で引き金を引けば、額に銃口を宛てがわれた悪魔は、一瞬にして霧散する。
はぁ、はぁと肩で息をして、雪男は脂汗を滲ませた己の身体を抱きしめた。

誘惑は、日に日に激しさを増していた。
悪魔になど諭されなくとも、本当はわかっていた。自分がどれほど兄に焦がれているのか、
兄のことになれば自分の理性がまったく役に立たなくなることぐらい、自覚している。
ただ、兄を守れるように強くなりたいと請った純粋な心は、
一体どこで間違ってしまったのだろう、と思う。
あの、悪夢のような青い夜、
青焔魔の胤裔である証の、あの焔を観た時、
養父を殺した憎むべきモノだと思うと同時に、ひどく美しいものだと心が騒めいたのだ。
駆けつけた瞬間、垣間見た青い焔。
兄が纏うその姿に、七年間、心の奥底に秘め続けていた感情は、
一気に爆発し、そうして己の心を侵食していった。

それは、渇望とも言える激しい欲望。
ましてや、いまだ無自覚なあの悪魔は、無意識に雪男を誘惑し、年齢に相応しくない無防備な表情を曝け出すものだから、
雪男の理性ももはや限界だ。
若く、浅ましい己の身体が恨めしい。
冷静な仮面の奥で、必死に動揺を隠そうとして視線を逸らせば、
怒ったのか、と勝手に勘違いして、更にべたべたとスキンシップを求めてくる兄が、
弟には許せなかった。
まるで、拷問だ。
その劣情に耐え、必死に眠りに付けば、
けれど夢の中ですら、こうして自分の心を揺さぶりにかかる兄の姿に、
どうしようもなく苦しめられる。
―――眠れない。
悪魔を消滅させた跡にただ立ち尽くす雪男は、またもや背後に迫る気配にびくりと肩を震わせた。

「・・・雪男?」

兄とそっくりの声音、またもや同じ手口にハマるわけにはいかない、と
今度こそ雪男は相手の言葉も聞かずに、身を翻し銃を押し付ける。
おろおろと表情を困惑させる存在に、ハッとした。
それは、先ほどの、燐の姿を纏った悪魔の妖艶さとは程遠い、幼さとあどけなさを残す、愛おしい兄のそれだったからだ。














「・・・・・・っに、兄・・・さん・・・?」

気づけば、ベッドの上で身を起こし、枕元に肌身離さず置いていた拳銃を兄の額に押し付けていた。
しかも、引き金に指までかけて。恐ろしい話だ。
自覚した瞬間、雪男は掌を震わせ、銃を取り落とした。間違っても、命より大切な兄を手にかけるなんて有り得ない。

「っあ・・・あぁ・・・」
「大丈夫か?お前、魘されて・・・」

まるで、心臓の奥が凍えるようだ。今自分がしでかそうとしていた恐ろしい現実に、
身体中の震えが止まらない。恐る恐る顔をあげれば、
心配そうな兄の顔。
兄は、どう思っているのだろうか。悪夢に魘されていたとはいえ、実の兄に、一度のみならず二度も銃を向けた弟を。
それを考えると、雪男は怖くてたまらなかった。と、ばさりと覆いかぶさるようにして、
兄の身体が自分を抱きしめてくる。どういうことだろう?これは、夢の続き・・・?

「兄さ、」
「まだ、震えてる。そんなに怖い夢だったのか?手も、冷たいし・・・」
「っ、」

ぞくり、と。
先ほどの震えとは違う、別の興奮が背筋を這い上がるのに、雪男は再びうんざりと顔を顰めた。
実の兄に触れられて、性的興奮を覚える自分の身体が情けなくて仕方ない。
しかも、相手のほうは、ただ兄として、悪夢に魘されていた弟を宥めようとしているだけだというのだから、尚更タチが悪い。
自分より華奢な腕と身体で、幼い頃と同じようにポンポンと背を叩き、
よしよし、もう大丈夫だ、兄ちゃんがついてるぞ、と、そう囁いてくる燐が、恨めしかった。
何も知らない、兄。
弟がこんな感情を抱いていると知ったら、今度こそ本当に嫌われてしまうかもしれない。
だから雪男は、必死に兄の身体を引きはがした。
大丈夫だよ、と自分にすら言い聞かせて。

「・・・もう大丈夫だよ、兄さん。・・・銃なんて向けて、本当にごめん」
「へへ、この俺様が、お前の一撃くらいで死ぬわけないだろ?気にすんなって」

鼻を鳴らして、得意気に胸を張ってみせる。
相変わらずの兄の自信過剰な態度に、雪男は思わず破顔してしまった。
悪魔である以上、聖銀の弾など、掠っただけでも当分の間は彼の皮膚を灼く深い傷になるだろうに。
改めて、無意識に引き金を引いてしまわなくて、本当によかったと胸をなで下ろした。
このまま、まかり間違って彼に傷などつけてしまったら、いよいよ雪男は自分を許せなくなってしまうだろう。
兄を守る、という大義名分すら失い、それこそ、兄の傍になどいられなくなる。
それだけは、どうしても嫌だった。
例え、兄が、自分だけの兄でなくなってしまったとしても。

と、よいしょ、と隣で声が聞こえ、ぎょっとした。
もぞもぞと、自分の布団の中に入り込む燐に、慌てて雪男は寝に入ろうとする兄を咎める。

「ちょ・・・兄さん、自分のベッドに戻りなよ!?」
「んー、たまには添い寝?してやろうかとさぁ。ほら、まだ朝までは時間あるし?」
「・・・もう少しすれば、起きる時間だよ。っじゃなくて!こんな狭い所で、何を・・・!」

そう雪男は燐を追い出そうと試みたが、中々うまくいかない。
それどころか、あまのじゃくな兄は、弟が困っているところを見ると、更にからかいたくなる性分で、
ますますベッドにかじりついて離れない。雪男はうんざりと顔を歪めた。
どうしてこの、無自覚な悪魔は、こうやってべたべたと自分に構いたがるのか。
これでは、冷静を装う雪男だって、もはや平静ではいられない。
夜明け前、カーテンの外はうっすらと朝焼けの色に染まっていて、
暗がりに慣れた目では、燐の顔がしっかりと見える。
それが、どうしようもなく、雪男の若い身体を煽った。
Tシャツにハーフパンツという、至って簡単な格好もいただけないし、
ましてやそのTシャツもよれてしまい、素裸の腹や鎖骨が無防備に曝け出されているのも、
男を誘う武器にしかならないのだ。
もはや、雪男は、己の欲望を抑える方法を見失っていた。
このままでは、確実に襲ってしまう。それこそ、情欲に呑まれたように、
燐がどれほど嫌がろうとも、組み敷いて、抵抗を抑え込んで、強引にその穢れのない身体に自分の痕を刻み付けたくて
仕方がなかった。
あの夢に出てきた誘惑の悪魔の言うとおり、自分は、兄を自分だけのものにしたいのだから。

「・・・ほら、あったかいだろ?」
「・・・・・・・・・・・・兄さんはさ、本当、馬鹿だよね」

心の底から、呆れたように声を吐き出した。
もう、先ほどまでの、己の暴走する感情に脅える自分はいなくなり、
ただ、欲しくてたまらない、狂気じみた精神が雪男の身体を支配していく。
もう、抵抗するのはやめた。
今日は、兄の自業自得だ。自ら、獣の檻に飛び込んできた燐が、悪いのだから。

「っちょ、今、ここで言う言葉かよ、それ」
「いつだって、何度もいってあげるよ。馬鹿だね兄さん。僕だって、男だよ?」
「は・・・?」

意味がわからない、といった風に眉根を寄せる兄。
そう、そうだよね。わかるわけないか。
自分が、どれほどたった一人の兄である燐に焦がれてきたか。
何度、彼を腕の中に閉じ込め、すべての肌に唇を落とし、丁寧に丁寧に愛してやりたい衝動と戦ってきたことか。
この、頭の弱い燐には絶対にわからないだろう。

「俺だって、男だけど」
「のこのこ、獣の寝台に上がりこむ兄さんが、馬鹿だって言ってんの」

それじゃあ、襲われても仕方がないよね、と囁かれて、
次の瞬間には、燐の両手首がシーツにきつく縫い止められていた。
動揺を隠せない瞳の奥には、かすかな脅えが垣間見えて、少しだけ良心の呵責を覚えたが、
もう、理性などブチ切れている雪男は止まれない。
それどころか、目の端に涙すら貯める初心な燐に、更に己の身体は昂ぶった。
下肢の熱など、もう元には戻れないほど張り詰めていて痛いくらい。

「言っとくけど、僕は忠告したよ。自分のベッドに戻りなよ、って。
 なのに、ここにいることを選んだのは、兄さん。全部、兄さんのせいだからね」 
「っ雪男、どういう・・・」
「好きなんだ」

どうしようもなくて、苦しげに吐露された本音。
2人の間に、沈黙が下りた。だが後戻りはできない。雪男は、更に距離を縮め、
唇に触れそうなほど近づけて、じっと燐の瞳を見つめる。
美しい、海の様な深いブルー。釘付けだった。もう、ずっと前から。

「好きなんだ、兄さんが。ずっと、ずっと、兄さんとしたい、って思ってた。
 でも、ずっと隠し通すつもりだった。だって、こんな感情、兄さんにとって、迷惑なだけだし、
 足枷になるだけだ。だから、・・・それなのに、」

唇を噛み締め、何かを堪えるようにして雪男は瞳を閉じた。
そうして、

「ねぇ、キスしていい?」
「っえ・・・」

生まれてこのかた、喧嘩ならともかく、女子と付き合ったこともなければ、恋愛に全くもって疎い燐は、
突然の弟のカミングアウトに、口をぱくぱくさせるばかりだ。
何が、どうなっているのかもわからない。多分、回転の遅い頭が、更に停止しているのだろう。
けれど、もう、どうでもよかった。
どうせ、受け入れてもらえる感情でないことくらいわかっている。
それでも、ここで本音を吐露してしまったのは、
もう、隠し通すことにも疲れたから。
劣情を押さえつけ、心の鍵をかけて、誰にも見せないようにしていても、
ほころびはどこかで生まれる。あの悪魔につけ込まれたのもそのせいだったから、
いっそ、すべてを吐き出してしまいたかった。
例えそれで嫌われたとしても、もう、仕方がない。
後悔だけはしたくなかった。

「雪男、まっ・・・んんっ・・・!」
「兄さん・・・」

半開きの無防備な唇に、雪男はついに触れた。
思いのほか簡単に奪うことのできた兄の唇に歓喜を覚えると共に、もう、本当にいままでのようには戻れないことを悟る。
コトの重大さを、ようやく頭が理解してきたのか、次第に抵抗が激しくなる両手両脚を押さえつけ、
更に深い部分までねっとりと舌を這わせる。
脅えたように震える唇を感じながら、閉じられた歯列の形を確かめるように歯茎から丁寧に舌でなぞれば、
苦しげに息をつく燐は、ようやくかすかに口を開いてくれた。
すかさず、侵入する雪男の舌。
片手で顎を押さえて、咄嗟にあの犬歯で噛み千切られないよう、固定した。
そうして、同じように舌を絡め取り、吸い上げる。唾液が二人の間に溢れ、ぴちゃぴちゃと卑猥な音を発した。
ディープキスどころか、キスすら初めての燐には、もう何がなんだかわからない。
口の端から、だらりと体液が溢れ、燐の頬を汚した。
けれど雪男はお構いなしに口内を蹂躙する。
燐もまた、自由になったほうの腕で必死に雪男の胸に突っ張り、彼を押しのけようとしていた。
もはや、頭はパニックだ。
どうしてこうなったのか、実の弟と何をやっているのか、
燐の頭の中では、確かにぐるぐると疑問が湧いていた。けれど、それを考えている余裕もないほどに、
唇が触れている熱が熱い。いや、それどころか、握り締められている掌も、
身体を密着させているせいで、肌と肌が触れ合う箇所の熱さも、
すべてが燐の思考を許さなかった。

「っは・・・あ、はぁっ、はっ・・・」
「・・・・・・ごめん。嫌だった、よね」

もはや、初めて感じた熱に溺れている燐の虚ろな瞳には、
自分など映っていない。それを確認して、雪男は、自分の心が、再び重くなるのを感じていた。
同意とは言えない行為。多分、今の燐ならば、彼が混乱しているのをいい事に、
次の愛撫やその先の行為にまで踏み込んでしまっても、大して抵抗しないで欲を叶えることができるだろう。
けれど。
それは、雪男の本意ではない。
彼の心に傷をつけたいわけではなかった。だから、今のは一瞬の気の迷い。

「ゆ、きお・・・」
「ごめん。忘れてくれる?」
「あ・・・」

欲望に負け、彼の意思に反して無体を強いてしまった兄の姿を見たくなくて、
目を逸らしたまま彼の上から退いた。そのまま、ベッドから降りれば、焦ったように力なく自分の腕を掴んでくる燐。
けれど、もう、振り向くことはできなかった。
振り向けば、今度こそ、後戻りできなくなってしまうだろうから。

「・・・兄さんが、欲しかった。誰にも、奪われたくなかったんだ」

噛み締めるように呟いて、呆然と自分を見つめるだけの兄の腕を振り払い、
そうして背を向け立ち上がる。
そのまま、何も言わずに部屋を出れば、空は既に白んでいて、少しだけ晴れた気分になった。
隠し続けていた心をすべて明るみにしてしまった今、ひどく虚しいような絶望感が心を支配していたが、
不思議と、先程までの胸の苦しさは感じない。
唇を押さえ瞳を閉じれば、思い出すのは先ほどのしっとりとした柔らかな感触。
一生、覚えていようと思った。
例え、この想いが報われないまま終わろうとも、
二度と、後悔しないために。







...to be continued ?





Update:2011/09/04/SUN by BLUE

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