Orchid vol.1



夜に家を出たかと思えば、朝方になって帰って来る。
そんな蘭の行動が、優士にはどうしても理解できなかった。
確かに、仕事をおろそかにすることはなかったけれど。
問い詰めるたびにフキゲンになって、自分の掴んだ腕を振りほどく彼が、どこかいつもと違う気がした。
いつもなら自分の言葉になど動揺しないばかりか余裕の笑みすら浮かべてかわすのに。
この時だけは、わけもなく苛立っているような、ムキになっているような。
(・・・蘭・・・)
暗い闇の中。見失いがちなのを必死に目を凝らして蘭を追う。
放っておけばよいものを、どうしてここまで気になるのか、
優士は自分でもよくわからなかった。
どこかふらふらと歩く蘭は、
下手をすれば倒れてしまいそうで、思わず手を差し伸べたい衝動に駆られる。
ひどく頼りなさげな彼の後ろ姿は、いつも自分の前で見せている蘭とはあまりに違っていた。
蘭は構わず、昏い空気を帯びた裏路地に入っていく。
優士は少しためらった後、蘭を追って同じように異空間に足を踏み入れた。
(・・・こんなところに・・・)
毎夜毎夜、おどずれていたのだろうか、と思う。
こんなうさん臭い、無法地帯といえる場所を、蘭は何のためらいもなく歩むのだ。
下品そうな男だちが蘭を見てニヤリと笑う。そんな反応も、どこかおかしい気がした。
蘭の目の前に、一人の男が立ちはだかった。
いやしい笑みを浮かべたその男は、ふところからくしゃくしゃの紙幣を3枚取りだす。
蘭の目の前に掲げられたそれを見て、優士は目を見開いた。

「―――――!」

まさか、とは思ったが。
悪い予感は、意外によく当たってしまうもので。
声も出せずにその様子を見やる優士の目の前で蘭は少し首を傾けると、その美しい指を5本立てた。
5万。
蘭の、そのカラダの値段。
男は顔をしかめつつあと2万を取りだし、受け取った蘭はひどく妖艶な笑みを浮かべた気がした。
そのまま男の手に引かれて蘭が見えなくなっても。
優士はそのまま立ち尽くしていた。
彼の汚らわしい行為を、そもそも売春などという犯罪行為を、目の前でありながら止められなかったこと。
その自分らしからぬ弱気な態度はどうしてなのか、
今の優士には理解すらできなかった。

「・・・っ蘭・・・!」

冷たい雨が身体を刺すようだ。
いつのまにか降りだした雨は、
暗く淀んだそこを、より黒く染めている気がした。










こんなことをするしか、なかった。
時間は容赦なく過ぎていくし、うかうかしていれば自分さえ死んでしまう。
偽の情報をさんざん吹きこまれてきたらしいあの懐かしい下町は、
今は彼にすら牙を剥き、
少年は戻る場所すらなかった。
けれど、そんな絶望的な運命でも、少年は生きてきた。
大切なものを根こそぎ奪われた彼が、唯一守りたいと思った者のために。
白い部屋。消毒薬の匂い。動かない身体。
彼女を生かすために、目覚めさせるために金がいるのなら、どんな手段を使ってでも手にいれる。
だから、あんな屈辱的な行為にも耐えられた。
(・・・彩・・・)
最低な兄貴。
復讐に手を染め、裏稼業に身を落とし、暇さえあれば男にカラダを開くなんて。
妹が目覚めても、今の自分は合わせる顔がないだろう。
蘭は小さく苦笑うと、吸っていた煙草を灰皿に押しつけた。
時間は10時。
優士の家では、個人の私室以外の明かりが消える時刻だ。
その後は夜の静寂に包まれる。
蘭は部屋の明かりを消すと、そっと部屋を抜け出した。
けれど。

「―?!」

寝静まったはずの廊下で、気配が動いた。
振り向いたその頬に、唐突に強烈な拳が飛んでくる。
不意打ちを避けることもできず、蘭は部屋の中に飛ばされてしまっていた。

「っな・・・!」

バタリ、と閉められた扉。
今しがた自分を殴った男が部屋に入ってきたのだ。
すぐ考えればわかることだったが、今の蘭は電気をつけてその恐ろしい形相をした男の顔を見るまで、その正体はわからなかった。

「っ優士・・・・・・」

驚きに目を見開いたまま、蘭は鷹に射すくめられた雛鳥のように動けずじまいで。
抑えてはいたが抑え切れない激情のまま襟元を掴んでくる優士の腕に、蘭は恐怖の声をあげた。

「汚らわしい・・・・・・」
「・・・っ・・・」
「そうやって、毎晩毎晩違う男知らない男に身を委ねておいて、何食わぬ顔で俺や太陽の前にいたのか、お前は・・・っ!」

最後のほうは、優士らしからぬ悲鳴が混じっていた。
嫌悪と、怒りと、そして今まで見ぬけなかった自分への憤りと。
汚らわしい。
そう吐き捨て、優士は掴んでいた腕を離した。
何故知っているのかとか、尾けていたのかとか、聞けるような状況ではなかった。
怒りに震える拳だけで、優士の心は明白で。
こんな、堅い男に、知られるわけにはいかなかった。それなのに。
蘭は唇を噛み締めた。

「・・・金が、いるんだよ。あんたにはワカンナイだろうけど。どうやって稼げってんだ?普通に働いて貰える金なんてたかが知れてる。足りないんだよ、それじゃ」

吐き捨てる。
どうしようもなかった。どうしようも。
たかが少年が、どこで働けばそんな大金を手にすることが出来る?
1つは、裏稼業の道。
そうして、もう1つ選ぶなら、こんなトコに身を堕とすしか道はないではないか!!

「・・・ならば、俺が買う」

低い声。聞こえるか聞こえないかの声に、え、と顔を上げる。
不意に腕を掴まれ無理に立ち上がらせられた蘭は、すぐさま優士に抱きすくめられ息を飲んだ。

「ゆう・・・っし・・・?」
「10万だ」
「っな・・・」

蘭があの夜の街で提示した値の倍の額。
それは、蘭にとって魅力的な数字ではあったけれど。
優士と、そんな金をやりとりする関係になどなりたくなかった。それなのに。

「ひと晩10万。月300万。それだけあれば、お前が街に出る理由は何もないだろう」
「・・・・・・あぁ」

本気で。この男は自分を買おうというのか。しかも、そんな破格の値段で。
そこまでして、なぜ自分の行動を止めたいのか、蘭にはわからなかった。
勝手にさせてくれれば、それでよかったのに。

「・・・じゃ、交渉成立、だな」
「・・・・・・」

絶句する蘭の顎を取り、乱暴に唇を奪う。
初めて味わった優士の唇は、それでもあの場所の男たちとは違って、ただの粗雑さではない優しさと上品さを備えていたけれど。
蘭にとっては、それはただ痛いだけの行為でしかなかった。

「・・・金は、どうしたんだよ」

状況に混乱しながらも、気丈に振舞って優士に手を差し出す。
けれど、金を貰おうと伸ばした手は優士に絡め取られ、そのまま蘭は近くの自分のものとして使わせてもらっていたベッドに押し倒された。

「・・・っ」
「金なんて、後払いでも構わないだろう」

言い捨てて、蘭のはだけた肌に手を差し入れる。
いつもの優士らしからぬ強引な態度と行為に恐怖を抱き、蘭は思わず抵抗してしまっていた。

「・・・っや、だ・・・!」

商売だというのに自分には抵抗の色を示す蘭に優士は低く笑った。
他の誰にも見せない蘭の姿が、自分の下でだけ見られることに、少しだけ欲を煽られる。
今は汚らわしいこの身体を、金で自分だけのものにできるなら、それでいいと思った。

「・・・おとなしくしてれば、10万なぞくれてやる。そのかわり、夜は家から出さないぜ」

優士の強い瞳の色に、蘭は目を閉じた。
指先だけで蘭の服のふちをたどり、優士は器用に脱がせていく。たったそれだけの淡い愛撫に、蘭の身体が震えた。
羞恥心というものは、相手が知っている者だからこそ湧き起こってくるもので。
たかが商売相手にはすぐに晒せる自分の身体は、しかし優士に暴かれるのは恐怖以外の何物でもなかった。
けれど、これは愛を育む行為でもなんでもないのだ。
たとえ相手が優士であれ、金を貰い、その代償に身体を開くのだから。
少なくとも、優士は自分をそんな風にしか思っていないだろう。
自分だってそう割り切ればいいものを、何故、こんなに胸が高鳴る?
優士が自分を愛してくれている―そんなわけでは決してないのに。

「・・・何、考えてる」

優士に指摘されて、蘭ははっと我に返った。
見下ろす優士の瞳は激情をはらんだ鋭い光を帯びていて、まっすぐに目を合わせられない。
無意識に逸らされた視線を無理矢理自分の方を向かせることで絡め取った優士は、脅えたように揺れる蘭の瞳の色に目を細めた。

「・・・いつも客にそんな失礼な態度を取っているのか?」
「・・・っ違・・・」

違う、と言いかけて唇を噛む。
間違っても優士の前だからこうなる、なんて知られたくなかったし、自覚したくもなかった。
自覚してしまえば、自分がこの男に対して特別な感情を抱いていると認めることになる。
そんなことはごめんだった。
蘭はいつも客たちにするようにしなやかな腕を伸ばすと、
きっちりと着込んだYシャツとベストを脱がそうと指先に力を込めた。

「っ優士・・・」

名を呼ぶのは、男の意識を自分の方に向けさせるのに有効な手段。
けれど、いつもなら意識的に声に出すはずのそれは、しかし今は自然に洩れてしまっていて、
蘭は羞恥に頬を染めた。
自分が暴いた優士の肌が自分のそれに触れるだけで思わず息を詰めてしまうのはどうしてなのか。
他の男相手だったら、何の苦もなく誘うような吐息を上げられるのに。

「蘭」

不意に耳元で名を呼ばれ、蘭は小さく身体を震わせた。
男に囁かれて、びくりと反応してしまうこと自体、蘭には経験のなかったことで。
そんな揺れる心を知られたくなくて、蘭は今だ優士を包む衣服を乱暴にはぎ取った。

「・・・1つ、確認しておきたい。お前、風呂にはきちんと入ったろうな?」
「は・・・?」

一瞬あっけに取られ、それから苦笑う。
ああ、そうだ。
人一倍潔癖症な彼のこと。
本当なら、自分に触れることすら嫌でたまらないのだろう。
改めてそれを感じて、やはり優士は自分のことなど何とも思っていないのだと、
彼の瞳には自分などただ汚れたものとしてしか写っていないのだと、
蘭は少し胸が痛んだ。
優士が自分の背を抱いてくる。

「・・・お前に触れるのは一向に構わないが、お前を今まで買って来た男達になど間接的にも触れたくないからな。」

どこか、口にするのも嫌なように。
蘭から視線を逸らして、吐き捨てる。
優士の言葉は、蘭が勝手に邪推していた優士の自分に対する思惑とは全く違っていて、
蘭は驚きと共に安堵が自分の中で湧き起こるのを止められなかった。
優士は、自分そのものが嫌だ、と言ったわけではなかったから。

「・・・大丈夫。今日帰って来る前も、さっきも入ったから」

少しだけ、泣くような笑みを浮かべて。
目の前にある優士の頭を掻き抱く。
さらりとした金髪に指を絡ませると、優士は蘭の肩に顔を埋めたまま首筋へ唇を落とした。

「っ・・・」
「随分と初心な男娼だな」

―当たり前だ。
こんなに抱かれることを意識して抱かれることなど、今までなかったから。
ここまで相手の存在を意識することなど、今までの蘭にはあり得なかったから。
経験など嫌というほど積んできたはずの自分が、まるで処女のように鼓動を高鳴らす様に戸惑いを覚えながら、蘭は優士の愛撫に声を洩らした。
片方の手のひらで首筋を撫でられ。
そこを、甘く柔らかな唇が辿っていく。
誰に触れられても久しく感じることのなかった肌は、今では優士の愛撫に敏感に反応していた。
そのたびに口元から洩れる声は、もはや演技でも何もなくて。
今の蘭には、喘ぐ自分の姿を冷静に見やる余裕すらなかった。
不意に、優士の爪先が胸の飾りに触れた。

「っあ・・・!」

途端、のけぞる身体を抱き寄せ、もう一方の突起を口に含む。
唇で挟みこむようにして側面を刺激し、ツンと立ったそれに歯を立ててやれば、洩れる吐息が女のように艶やかだった。
自分の今まで知っていた蘭とは、明らかに違う蘭の姿。
優士は内心で舌を巻いていた。
これほどの美しさを自分の下で見せつけられれば。
何をしなくても男達が食らい付いてくるに違いない。
それほどに、蘭は魅力的だった。
自分すら虜にしてしまうほどのこの男。
だが、だからなおさら、誰彼にも抱かせてしまう蘭が許せなかった。


(蘭・・・)
月300万の買い物は、今は自分の下で、何のためらいもなく声を上げていた。
けれど、所詮金では心まで買えないのだ。
優士は唇を噛み締めた。
バカなことを考えている、と思う。
そもそも、蘭に対して特別な感情を抱いているなどと自覚した覚えはないのだ。
なのに、気付けば破格の金を差しだしてまで自分のもとに繋ぎとめたいと思ってしまっていた。
あんな奴、放っておけばよかったのだ、と冷静な心の声が告げていた。
けれど、出来なかった。
毎夜毎夜、蘭が出ていくたびに、眠れなくて。
彼のことを考えるたびに、胸が痛くなってくる。
そんな理解のできない感情に名付ける術も持たぬまま、優士は蘭への愛撫を続けたのだった。





end.




Update:2002/07/09/WED by BLUE

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