泥停



「浮かない顔をしておいでですね」

不意に投げかけられた科白にハッとした。
振り向けば、そこには白衣を纏った男。その姿は、
初めて彼を見たときと全く変わらない。
まるで時が止まったかのように、20年前と変わらないその顔立ち。
だが、それは今の自分も同じ事。
心の中に浮かんだ、昏い感情を打ち消して、
ロエンは男を無視するように再びテーブルの上のワインに目を落とした。
Eternal―――『永遠』を意味するその銘柄は、
今の自分にとっては、なんと皮肉なことか。

「もうすぐで、“神”を従えることの出来る御方が。
 ―――これから貴方は、20年前の“復讐”のためではなく、
 大いなる力でもって、人々を統べるのです。―――」
「―――お前は」

謳うように告げる男の声音を遮り、
ロエンは背後に佇む男をかすかに振り向いた。
淀んだ気配。―――いつもそうだ。
男と二人きりでいると、己の暗い部分が増幅させられる。
あの、大切なものを失った日の絶望感や憎悪、
長い間信仰してきた神への不信、人としてあるまじき欲望だとか。
そんなものが心を支配し、そうして浸透していく。
かつての、真っ直ぐだった自分の心は、
どうして歪んでしまったのだろう?

「―――お前は、私に何をさせたいんだ?」
「別に・・・何も?
 私の心は、20年前のあの時から何ら変わってはおりません。
 ―――私は、ただ、このゼニスの造る“運命”を解明したいだけ。
 そして研究の後ろ盾を望む代わりに、貴方への忠誠を誓いました。
 貴方の失ったものすべてを与えると、そう告げた。
 ―――そうして、それは既に目前です」
「やめろ」

まるで蛇のように絡みつく、ひやりとした腕に、
ロエンはそれを振り払うようにして椅子から立ち上がった。
20年前の過ちは、
今思えば、若さ故の気の迷いだったのだろう。
失ったものの大きさに、途方に暮れていた自分。
悪魔が入り込む隙は、いくらでもあった。
そうして、案の定自分は、
ふらりと現れた、女のような容姿で甘言を吐く、得体の知れないこの男を、
あろうことか信じてしまったのだ。
彼の胡散臭い程の忠誠を受け入れ、あまつさえ身体までつなげてしまった。
―――彼の毒は、身体の隅々にまで浸透し、
今となっては逃れることすらできない。
逃げたいと思えば、すぐにでも自分の命を奪うだろう。
―――死という概念から逃れたこの自分ですら。

「“彼女”を失い、孤独に苛まされていた貴方を癒すのも私の仕事。
 ―――ロエン殿が望むのならば、私は総てを差し出しましょう」
「・・・総て?」
「ええ。・・・総て」

パサリと衣擦れの音。
誰も望んでいないというのに、男は口の端を持ち上げて素肌を晒す。
それが、彼が自分に忠誠を誓っている証であるかのように、
サリヴァンは立ち尽くす自分の足に跪いた。

「さぁ」

貴方の望む通りに、と囁いて、布越し己の中心に触れる唇の感触。
ロエンは動かない。いや、動けなかった。
サリヴァンの銀髪の下の、妖艶な顔立ちに釘づけになっていた。
恐ろしい悪魔。わかっているのに、
なぜ自分はこんな男をいつまでも傍に置いているのだろう?
いや、多分、違う。
彼は、なぜ、研究がほぼ成功したというのに、
まだ自分に従う演技を続けているのだろう?

わからない。

お前は、私に何をさせたいんだ、サリヴァン?

「私は、お前を信じられない」
「大丈夫ですよ。―――私が欲しいのは、貴方ではない」

清冽なる研究成果と、そして“彼女”だけ。
サリヴァンの、狂ったような瞳に映る、高潔なる少女の姿を認めて、
ロエンは、ああ、と悟ったように上向いた。

私も、同じだ。

ただ、手の届かない“女神”に近づくために、
自ら翼を折り、手を黒く染めた堕落者。

「何度も言いますが・・・私たちは、咎人なのです」
「・・・ぁあ」

知っている、と掠れた声で告げ、
下肢に顔を埋める男の頭に手をかける。
こんな自分を、“彼女”は許してくれるだろうか?

脳裏に浮かぶ、美しい顔立ちを思い浮かべ、
ロエンは祈るように瞳を閉じた。





end.





Update:2010/02/05/FRI by BLUE

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