其れは正に夢の様な。



「痛くないか?」
「・・・・・・少し」

温かな男の背中に張り付いたまま、
少年は小さくそう告げた。

とある晴れた休日、帷は壬晴を連れて山に来ていた。
無論、ハイキングでも遊びでもない。
壬晴が体に宿す「森羅万象」―――。それを制御する方法を身につけさせるべく、
帷は半ば無理矢理にかれに忍術を教えている。
これもその一環。
自然の多い場所では、五行術は扱いやすい。同じく、森羅万象も。
だから帷は、乗り気でない壬晴を無理矢理来させ、
忍術を教えようと意気込んできたのだが。

「・・・まさか、来た途端に足を挫くとはなぁ。・・・・・・あぁ、俺の今日の予定が・・・」

帷はやれやれと肩を落とした。
後半は、ただの呟きである。
つまりは、修行に相応しい平原にまで行く途中、
川を渡る際に壬晴が足を挫いてしまったのである。
もちろん、帷のせいでもなければ、壬晴のせいでもない。
雨上がりのせいか、川岸の土が緩んでいたのだろう、
壬晴が踏んだ足場が突然崩れ落ち、
そのまま片足を水に突っ込んでしまったのだ。
帷が咄嗟に手を伸ばしたおかげで、
かろうじて腰を落とさずにはすんだものの、太腿から下まではぐっしょりの状態で、
しかも壬晴は足を痛めている。
こんな状況で、まさか忍術など教えられるはずもない。
結局、当分歩けそうにない壬晴を連れ、
帷は山を降りる羽目になっていた。

「仕方ないじゃない。今日はやるなって神様が言ったんだよ。」
「六条・・・お前はいつもいつもそうやって理由をつけて・・・・・・」

でも、まぁいいか、と帷は小さく笑う。
幸い、壬晴の足は大した怪我でもないようだ。
忍術も惜しいが、何より、あまり誰かに誘われて外に出ることのない壬晴と、
こうして2人きりで、傍にいられるのだ。
桜も落ち、初夏を思わせる季節。風は静かで、優しい。
森羅万象が目覚めたことで、隠の世は慌しい動きを見せているが、
今は。
壬晴を背負って山を下りながら、
帷は戻りたくないという思いに駆られていた。
実に、子供じみた感情だと思う。
地上に戻れば、当然、自分たちは互いの家に帰らねばならないし、
祖母が待つ壬晴を自分の都合で手放さないわけにもいかない。
まだ、太陽は高い位置にいる午後。
こちらから話さなければほとんど無口の壬晴を背に、
帷は理由を考える。言い訳じみたものでもいい、壬晴を引き止める理由を。
このまま山を降りてしまうのではなく、少しでも長く。
かれの傍に。

「・・・雲平先生。」
「ん?」

耳元で小さく呼ばれて、帷は首を捻った。
いたって無口だったはずの壬晴、どう声をかけようか迷っていた矢先、
壬晴からのアプローチ。耳を傾けないはずがない。

「少し、疲れたんじゃないの。息があがってるけど」
「別に、疲れてなんかいないさ。」

それは嘘ではない。
極端に乗り物に弱い事実は、長年の徒歩移動もあって足腰を丈夫にした。
小柄な少年一人背負ったところで、大した問題ではなかった。

「六条こそ、早く山を降りて、足を安静にしたほうがいい」
「俺は別に平気だよ。雲平先生こそ、少し休めば?」

壬晴が、他人を気遣うような言葉を聞くのはあまりなくて、
しかも、それが自分であることに少し戸惑う。
一見思いやりのある言葉も、なにか裏があるのでは、と思ってしまうのは
長年この小悪魔な子供と付き合ってきた故。
素直に彼の勧めに従って、
休憩をとってしまってもいいものか。
悩みながら歩いているうちに、視界は開け、萬天一帯が見渡せるような場所。
確かに、壬晴もただ背中に張り付いているのもつまらないだろう、と
とりあえず壬晴を地面に下ろした。

「疲れたか?」
「ううん。・・・水、飲みたい」

持参してきた水筒のカップに水を注いで渡してやると、
水が飲みたい、と行ってたわりには少し口をつけるだけで終わり、

「ハイ。」

今度は、残りを帷に手渡してくる。
大して水分を要求していない帷だったが、
壬晴に勧められたのでは仕方がない。同じように、口をつける。
すべてを飲み干してしまって、
今度は足を投げ出したまま呆けたように景色を見下ろしている壬晴の、
応急処置しかしていなかった足首に目を落とした。

「・・・まだ、腫れてるな・・・」

残念ながら、冷却パックは既に溶けてしまっていて、
後は湿布だけで冷やすしかない。
患部を痛めないように包帯を解く。
膝から足首にかけては、それほど深くはないものの、
足を滑らせた際にできた切り傷や擦り傷がいくつも存在していて、
帷は痛々しげにそれを見やる。
湿布を張り替えてやると、壬晴は少しだけ体を竦ませた。

「冷た・・・」
「我慢しなさい」

嫌そうに顔をしかめて、そっぽを向く。
自分自身の状況にすら無関心。
本当は、腰の辺りから水に浸かり服だってひどい状態なのに、
どうでもいい、と口にする。
勿論、着替えなど持って来ていないから、脱いで乾かすとなれば
それはそれで寒い思いをしなければならないが、
これでは、風邪でも引いてしまうのではなかろうか。
実際、まだ生乾きの状態の衣服を着たままの壬晴は、
肌も冷たく、寒々しい。
用意の足らなさが悔やまれた。

「寒いか・・・?」
「ん・・・」

無意識に両腕で体を抱きしめるようにする壬晴に、
帷は心配そうに覗き込む。
確かに、小さな肩先まで震えていて、
少しでも暖を取れるように、と自分の着ていたジャンパーを羽織らせた。
そのまま、腕の中に引き込む。
下心などはない。ただ純粋に、熱を分けてやりたかっただけだ。

「・・・雲平先生こそ、それじゃ寒いでしょ」
「お前が風邪を引いたら、それこそ俺の責任じゃないか。それじゃお前のお祖母様に面目が立たないだろ。」

風を避けるように、大木の木陰に腰を下ろして、
帷は息をついた。
壬晴は、いつも大人しい。逃げるわけでもなければ、抵抗もしない。
もちろん、口では「気持ち悪い」だとか「暑苦しい」だとかつれないことを言うけれど。
どんなに言葉で我侭を言われていても、
自分を傍にいさせてくれる、それがどれほど自分を安堵させているか、
彼は知るまい。

「・・・眠い・・・」
「おい、本気で寝るなよ。こんな格好のままで寝てしまったら・・・―――」

帷は慌てたように腕の中の存在を諭すが、
胸の中の存在は、瞳を閉じたまま動こうとはしない。
本当に眠るというのなら、せめて下肢に纏わりついているそれを脱ぐべきだ。
そうすれば、目が覚めた頃にはある程度は乾いているだろうし、
山を降りても変な顔をされずにすむ。
・・・無理矢理脱がせようとすれば、さすがに嫌がって自分で脱ぐかもしくは起きてくれるだろうか。

「ほら、六条―――・・・」
「ん・・・」

腰を抱えて、体を持ち上げる。
肩口にしがみついたまま、耳元で甘い声音を漏らす壬晴は、
無意識なのかもしれないが、本当に男泣かせだと思う。
それとも、意識的に自分を誘っているのだろうか?
このままでは、帷のなけなしの理性が吹き飛ぶのは時間の問題だ。

「まったく・・・」

少々乱暴に濡れたハーフボトムを脱がせ、とりあえずその場に放る。
本当はどこか風通しのよい場所にかけるかしたいのだが、
壬晴がしがみついていては何もできない。
気がつけば、下着一枚で、自分の足を跨ぐように寄りかかった子供。
沸き起こる不可解な感情は、端的に言うならば独占欲。
壬晴を、誰にも渡したくはなかった。
無論、壬晴を欲しているのは自分だけではない。
灰狼衆であれ、風魔であれ、忍であるならば誰もが壬晴を手に入れんと戦っている。
だが、それは壬晴自身ではない。
その内に秘める森羅万象を欲し、利用せんとしているだけなのだ。
そんな私利私欲のために壬晴が振り回されるなど、
帷には断じて許せなかった。

「眠るか―――?」
「・・・キス、して・・・」

寝惚けて頭がおかしくなっているのか、普段からは想像もつかない壬晴の台詞。
そうまで誘惑されては、当然、帷の「あくまで教師として、」などという自分への言い訳はもちろん効かず、
先ほどまで青ざめていた薄い唇に口付ける。
相手は、一回りも年の離れた子供。
まだ未成年の彼に、なにをやっているんだと己を罵る自分も確かにいるが、
頬を染め、うっとりとそれを受け止めるかれに、
もはや留まる理由もなかった。

「・・・お前のせいだからな」

ぼそりと呟いて、身体を入れ替える。
上着を敷いたその上に横たえて、彼の素肌を抱きしめるように覆いかぶさった。
首にしがみ付いたまま、壬晴はそっと目を開ける。
雲平帷。
ただの中学の英語教師に、
どうして自分がこれほど心を動かされるのか、
壬晴にはどうしてもわからなかった。




















(・・・・・・なんだろう)

心地よい気だるさの中、壬晴は考えていた。
空はすでに日が傾き、目の前に広がるのは美しい夕焼け。
耳を叩くのは自分を背負う男の土を踏む足音だけ。
眠っていると思っているから、言葉はない。
けれど。

(・・・暖かい)

男の背から伝わる温もり。
それは、にわかに離れがたくて壬晴は狸寝入りを続ける。
ふと、なぜか幼い頃の記憶が頭を過ぎった気がした。
いつかなんてわからない。
けれど、確かに、幼い頃の自分も、こうして誰かに背負われていた。
暖かな背中。
肩にしがみ付いていた指に、かすかに力を込める。

だ、れ。

だが、考えたところで思い出せるはずもなく、
とりあえずは今背負われている男の心地よさに身を委ねる。
このまま、何もなければいい、と思う。
森羅万象も、隠の世も、なにも自分には関係なくなって。
雲平帷も、忍などではなくてただの教師で。
そうして、自分は無関心のままでいて、
時折こうして愛されていられるのなら、それで。

「・・・六条。もうすぐバス停だぞ。」
「ん・・・」

帷の声に、現実の世界に引き戻される。
もう少しこのままでいたいのだと言葉に出さず肩口に訴えれば、
帷もまた、何も言わずに彼を抱える腕に力を込めた。





end.





Update:2008/04/23/WED by BLUE

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