KILLING MY LOVE vol.1



脅えているのはわかっていた。
心を読むことのできる弟に、すべて隠し通すことは不可能だ。
俺の醜い心を感じ取っていながら、それでも極力普通に振舞おうとしている弟の態度に、
俺は、少しでも気を抜けば暴走を始めてしまうであろう己の心をこそ呪った。
弟を愛していた。
大切だった。ただ、それだけのはずだったのに。

「・・・兄さん」

震えるような声音。これ以上、その脅えたような瞳を見ていたくなくて、
俺は直也の手を振り払う。こんなはずじゃなかったのに。
怖かった。他人のみならず、弟まで傷つけてしまう自分が。直也の傍にいられなくなることが怖かった。
そして、何より。
―――直也に、嫌われるのが怖かった。










弟への性的欲望を初めて意識したのは、一体いつの事だったろう。
社会から隔離されて生きている以上、どうあっても女性との出会いなどないに等しかった日常。
知識だけは一人前でも、相手がいなければ経験など積めるはずもなく、
必然的に1人で処理する日々が続く。
当然、その時は、弟相手に何を思うこともなかった。
そもそも、弟はまだまだ幼かった。自分にとって常に弟は守らなければならない存在で、
精神的にも身体的にも年齢相応にも満たないほどに幼かった彼は、
自分にとって子供だとも思えた。
何かあればすぐにしがみついてくる弟の熱が、
自身の熱を煽ることもなかった。当然のことだった。
自分は兄で、相手は弟。考えたこともなかった。
だのに、その均衡が崩されたのは、あの時―――そう、弟がふぃと姿を消した、あの時からだ。
『兄さん、助けて』
心で必死に自分を呼び続ける彼の声音には、ひどい恐れが滲んでいた。
直也は、他人の心が読めるばかりに、
己の頭に流れ込んでくる人の醜い感情やあからさまな欲望を嫌というほど感じてきた。
だから、特に怖かったのだろう。
幼い弟は、常に脳内で性的欲望の餌食にされていた。
男性にも、女性にもだ。
だから、研究所に出入りする職員ですら、ほとんど近づけない状態だった。
そんな彼が、姿を消した―――。しかも己の意思ではなく、だ。
これは、考えるまでもない。
弟をさらった理由など、ひとつしかない。
『・・・っ直也・・・!!』
心の声を頼りに、俺は清掃職員が利用する狭い個室にたどり着いた。
直人は、ためらうことなく力を使った。
頑丈に施錠されていたドアが、あっけなく壊れ、弾け飛ぶ。弟のためなら、この呪わしい力も味方のように思えた。
直也は、部屋の片隅で蹲っていた。

「・・・・・・、兄さん」

引き裂かれた衣服が、無残に足元に散らばっていた。それだけで十分だった。
何を考える前に、力が迸った。直也を囲っていた4人の男共が、壁や棚に叩き付けられた。物凄い音がした。
普段のように、頭に血がのぼり、何もわからなくなるような怒りは湧いてこなかった。
抑える必要のない、力が体中に漲ってくるのを感じた。

「直也、しっかりしろ」
「・・・兄さん」

幸い、未遂ですんだことに、直人はほっと胸を撫で下ろした。
もちろん、これだけでも直也の心に深い傷が刻まれたことに変わりはない。けれど、それでも。
男たちの、醜く歪んだ感情を、心のみならず身体に刻み込まれてしまったら。
直也は、立ち直れなかっただろう。
安堵したのか、ガクリと力が抜けて意識を失う直也を、直人は抱きかかえた。
1人にすることが、不安でならなかった。
直人は、直也を部屋へ連れ帰った。

それから数日、直也は熱を出し、寝台から起き上がれない日々が続いた。
意識を、深い深い底に沈ませて。
直也を襲おうとした男らは、研究所の職員の中でも素行が目立ち、御厨にクビを宣告されるような奴らだった。
当然、次の日には所内への出入りを禁じられることとなった。直也を傷つける者を、直人も御厨も置いておきたくなかった。

「・・・直也」

綺麗に整った、けれどまだ幼さを残すその顔を、
直人はじっと見つめた。美しいとさえ思った。TVで見る、美女と謳われるどの女性よりも、余程。
そうして、そんな直也の色香に惑わされ、彼に性的欲望を抱いた者達に、
憎しみに近い感情を抱いた。
―――直也を、ただの欲望のはけ口にしか考えていない奴なんかに、直也を渡しはしない。
直也は、俺のものだ―――。
その瞬間、心の中に確かに芽生えた感情を、直人は一生忘れないだろう。
それは、表現するならば独占欲。
もう誰も、直也に触れさせたくなかった。直也のためではなく、自分のために。
自分以外の誰にも、触らせたくなかった。
眠る直也の身体を、抱き締める。
それは、今まで数え切れないほど腕に抱いてきた、弟を大切に思う気持ちとは明らかに違う。
衝動的に、直人は身体を傾け、静かに眠りつける弟の唇に己のそれを重ねた。
初めてだった。
冷え切っていた直也の唇が、熱を持ったのがわかった。無意識に、自分は力を使っていたのだろうか。
直也は、目覚めた。
―――信じていた兄の、史上最大の裏切り行為と共に。

「・・・兄、さん・・・っ?」

飛び込んできた、脅えたような色の瞳。
その瞬間、直人は悟る。自分が、どれほど罪深い感情を、弟に抱いてしまったか。
自分に対する、大人たちの醜い欲望にずっと苦しんできた直也は、
兄だけはそんなことはないと信じていたはずだ。
それなのに―――

―――信じていたのに・・・

言葉にならない直也の声を、聞いた気がした。

「ごめんよ、直也・・・、―――ごめん」

直人は、その場を走り去った。このまま、直也の傍にいる自信がなかった。直也は、己の罪の意識に苛まれていた。
弟を守りたいと思いながら、彼を傷つけてしまった―――。
それは、直人にとって、自殺すら考えてしまいそうな程、残酷な出来事だった。

直人は、直也の部屋に近づかないようになった。
代わりに、その頃から部屋に度々押しかけるようになった真理子という女と関係を持った。
初めてのその行為は、しかし弟という大切なものを失くしたも同然だった直人に、大した感動をもたらさなかった。
ただ、己の罪の意識と、弟への屈折した想いを昇華するかのように、
直人は彼女を抱いた。愛などではなかった。そうでもしないと、己が壊れてしまいそうだった。
たまに弟の部屋に顔を出すと、弟は相変わらず病気がちで、寝たり起きたりを繰り返していた。
完全に回復しない原因はわかっていたが、今の直人にはどうにもできなかった。
読まれたくない感情を抑えるのに、直人は必死だった。
必然的に、会話も途切れがちだった。
そうして、数ヶ月が経った頃。

―――事件が、起こった。





「直也・・・」

御厨に呼ばれた直人は、愕然として目の前で機械に囲まれて横たわる直也を見た。
横に設置された心電モニターの音が弱弱しい。口元には呼吸器。自分で息もできない程にまで体力を落とし、昏睡状態に陥っている弟が、
信じられなかった。
過去、同じように直也が昏睡状態に陥ったとき、その原因は明らかだった。
自分と直也は、常に傍にいなければならない存在だ。互いに互いを共有し合って、始めて2人でいられた。
だが、今回はどうだろう。
離れていたわけではない。ぎこちなかったが、
それでも兄と弟として、確かに互いに支え合って生きていたはずだ。
呆然と立ち竦む直人に、御厨は言った。

「・・・傍に、言ってやりなさい」

極力近づきたくなかった弟の傍。昏睡状態の直也は、あの綺麗だった頬を死人のようにこけさせ、
血の気の失せた青ざめた色をしていた。どうして、こんなことになったのか。
救いを求めるように、御厨を見た。だが、御厨は首を振った。

「・・・医者も、匙を投げた」
「そ、んな・・・」

眠り続ける弟を見る。御厨は静かに告げた。ふらりと意識を失うように倒れるようになったのはここ最近であること、今の状態になったのは昨日の夜からであること、直人の部屋に向かう廊下で倒れていた事―――。

「・・・っお、れの・・・、部屋に・・・?」

唇が震えた。信じられなかった。直人には一切、直也の声が聞こえなかった。
だが、それも当然なのだ。
直也に心を知られたくなくて、直人は意識的に直也の心をシャットアウトしていたのだから。
直也はおそらく、何度も直人を呼んだのだろう。
けれど、直人は応じなかった。だから直也は、重い身体を引きずって、直人の部屋まで会いに来ようとした。

「・・・器質的には、何ら問題はない。だから、原因は精神面にあるのだろう。これ以上、我々には何もできない。・・・だが、直人。お前ならば」
「俺は、直也を傷つけた」

直人は唇を噛み、拳を血が出るほど強く握り締めた。全て、自分のせいだった。
かつては、精神的なショックで昏睡に陥った弟の痛みを、自分も一緒に背負うことができた。だから、彼を救うことができたのだ。
だが、今回は違う。
そもそもの原因が、自分なのだ。今更、こんな穢れた自分に、何ができるだろう?

「・・・だが、お前にしかできない」
「・・・・・・でも・・・」

あの時のように触れることが怖かった。かえって、彼をどん底に突き落としてしまいそうで。

「・・・っ・・・」
「・・・傍に、いてやりなさい。たとえ、直也がこのまま目覚めなくとも―――・・・」

頭が、殴られたような気がした。

「直人。お前には、弟の傍にいてやる義務があるはずだ」

御厨は、そう言い残すと、部屋を後にした。
直人と直也―――たった2人の空間を、微かな機械音とぼんやりとしたモニタの光が彩った。
直人の頭に何度もリフレインする、御厨の言葉。

―――たとえ、このまま目覚めなくとも―――

「・・・っ・・・、ちく、しょう・・・!」

直人は全ての邪念を振り払うと、今までずっと恐れてきた直人の手を取った。
直也を、傷つけたくなかった。嫌われたくなくて、己の意識を彼に読まれたくなかった。だから、ずっと避けていた。
けれど―――。

「直也・・・お願いだ、目を開けてくれ・・・!」

強く、彼の手を握った。そうして、己の額に当てて祈る。
―――嫌われたって、構わない。もう二度と、直也に触れられなくなってもいい。だから、直也―――・・・

「俺の前から、いなくならないでくれ・・・」

知らぬ間に、直人は涙を零していた。
直也を失うのが、怖かった。この世のどんな恐怖よりも、直也を失うのが怖かった。

(直也・・・)

目を閉じて、深みに居るであろう直也を探した。
自分には感じる力などないけれど、それでも。
いままでずっと拒絶していた弟の存在だけは、絶対に感じてみせる―――。
直人は、触れ合った手のひらからエネルギーを送り込むように、しっかりと握り締めた。
そうして、どのくらいが過ぎたろう。
すぅと、こけた直也の頬に、赤みが兆した気がした。

―――兄さん。

「直也」

心の声が聞こえたことに、直人はほっと安堵の表情を浮かべた。
小さく、開かれる瞳。うっすらと笑みすら向ける直也に、直人はまた溢れる涙を止められなかった。
もう、大丈夫だ。呼吸補助器を外し、他の計器も外してやる。
身を起こし、直人はしっかりと直也を抱き締めた。
この数ヶ月、拒絶し続けてきた己を詫びるように。己の全てを明け渡すように。
また、脅えられたら、などと考える余裕もなかった。
ただ、嬉しかった。
これ以上の幸せなどない、と思った。

「すまない・・・直也。俺が悪かった。ただ、お前に、っ・・・」

―――嫌われたくなかった。
言葉にできない想いは、しっかりと直也に伝わっていた。
自分の歪んだ感情など、受け止めてくれなくて構わなかった。
恐る恐るでも、背に回してくれる直也の腕が、ただただ嬉しかった。

「・・・僕のほうこそ、ごめん、兄さん」

肩に顔を埋めながら、ぽつぽつと言葉を紡ぐ直也に、
直人は彼の背を抱き締め続けた。
もう、離さないとでも言うかのように。

「・・・わかってたんだ、本当は。兄さんが、あいつらのような乱暴な感情を僕に抱いてたわけじゃないってこと」
「直也・・・」

違う、直也。悪いのは、俺なんだ。
俺が、たとえ一瞬でもお前をそんな目で見てしまったから。
だから、傷つけた。お前を裏切ってしまった。

「でも、・・・初めてだったから。びっくりした。驚いたけど・・・、兄さんを傷つける気はなかったんだ」
「傷つけたのは、俺のほうだ。ごめんよ、直也」
「兄さん・・・」

抱き締められる腕から伝わる、直人の、自身を責め苛む心に、
直也もまた辛い気持ちになった。
直人が悪いわけではないのに。真摯に向けられた感情に、ただ突然過ぎて戸惑っただけだったのに。
直也は、意思を込めて直人の首にしがみついた。
この数ヶ月、ずっと迷っていた。
彼を受け入れるべきなのか、それともこのまま知らないふりをしているべきか。
けれど、漸く心を決めた。
だから、直人の部屋に向かった。足元が覚束ず、そのまま倒れてしまったけれど―――

「ね、兄さん。・・・抱いて、いいよ」

ぽつり、と呟く直也に、直人は驚いたように直也の顔を覗き込んだ。

「・・・直也、それは・・・」
「本当は、怖いけど・・・、でも、兄さんは、あいつらと違った。あの時触れた兄さんの心は、すごく優しかったんだ。だから、僕は・・・」
「直也」

微かに頬を染める直也を、直人は改めて抱き締めた。
自分があの時弟への感情を顕わにしてしまったせいで、直也を苦しませてしまった。
直也はおそらく、ずっと悩んでいたのだろう。辛そうに顔を歪めていたのは、
自分に脅える心ではなく、自分の想いをどう受け止めるべきかを迷っていたのだと、
直人は漸く気付く。
内気な直也にとって、自分からそう言うのはさぞ勇気のいることだろう。
今もまた、直也に気を使わせてしまった直人は、
弱気な自分に呆れると共に、弟に対するどうしようもない愛しさがこみ上げるのを感じた。
ずっと押さえ込んできた感情が、直也の言葉1つで溢れ出す。
まったく、どうして自分はこうなのか。
きっと、直也をここまで追い詰めたのは自分だ。

「・・・本当に、いいんだな?」
「・・・・・・うん。僕も、兄さんが・・・欲しい、から」

恥ずかしそうにうつむく直也の顔を、上げさせる。
唇を重ねるのはこれで二度目。けれど二人、合意の上では初めてのキス。

「・・・直也」
「ん・・・」

唇が触れ合う前に、心が重なった。
同じ意識を共有し、同じ精神を共有する。そうだ、忘れていた。
ただ、傍にいるだけではダメなのだ。
心を共有して、初めて2人は2人でいられるのだから。
直也は、瞳を閉じた。
重ねられる唇。温かく、柔らかな感触が、
微かに脅えの残る直也の心を優しく溶かしていく。
同性同士、しかも相手は血の繋がった兄。ひどく背徳的な、関係。
それでも―――。

(・・・兄さん・・・)

ありったけの想いを込めて、直也は直人の背を抱き締めた。





...to be continued.





Update:2006/07/13/THU by BLUE

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