始まり




―――死ニタイ。








暗い暗い、闇の中。
年端もいかない幼い少年が走っているのを、男は黙って見つめていた。
まるで、何かから逃れるように。
"助けて"という魂の声が男の耳に響いてくる。
少年に似つかわしくないその『絶望』の響きに、男は微かに眉根を寄せた。
死より苦しい思いをしてこなければ、ましてやこんな幼い少年が請(ねが)う事ではない。
男はスッと彼の前に立つと、走ってきた勢いでドンッとぶつかってきた身体を受け止めた。

「っ・・・あ・・・」

驚きと恐怖に、再度泣きそうになるそれを。
男は両手で静かに抱き締める。
「大丈夫だ」と囁いてやると、何の魔力か少年は安心したように身を投げた。
途端。

「・・・っう・・・」

呻き声か、泣き声か。
微かな声音と共に、少年の身体が力を失い男の腕に寄りかかる。
男がそっと身を離すと、ズルズルと彼の身体が地に落ちていった。
傷もなければ、血も流れていない。ただ、眠ったように倒れこむかの少年のそれだけが、そこに在る。
男はかれの元に足を折ると、彼の頬をそっとなぞってやった。
表情はない。ただ何もなかったような空気がその場に存在するだけ。
けれど、数秒遅れて、少年の走ってきた方向からバタバタと人の足音が聞こえてきて、
男は微かに空気を揺らす。
立ち上がると、案の定丁度裏路地の角から数名の男たちがこちらの方に走ってきた。
こちらもまだ歳若い。20いかないような年頃ではなかろうか。

「・・・っオイ!見つけたぞ!!」
「ああ・・・気を失ってるようじゃないか!大丈夫か?!」
「・・・別に外傷もない、死んでいるわけじゃないさ」

青年たちのやりとりを。
男は口の端を少しゆがめるだけで黙ったまま聞いている。
彼が死んでいるのは紛れもない事実で、けれど人間達にそれが伝わっていないことを男は皮肉げに哂った。
そう、彼らは。
気付いていないのだから。この少年の・・・、後ろに立つ、自分の存在を。
彼を担ぎ上げると、青年達はもと来た道を引き返した。
まぁ、このままこんな淀んだ外気に晒されたまま死なすのも切ないだろう。
青年達が背を向け立ち去る気配に、男もまたひらりと身を翻した。
その時。
闇の中から声が聞こえた。

「おい」

別に自分にかけられたものではないから、無視してもよかったけれど。
そこに"何か"を感じて男は立ち止まった。

「・・・捕まえたか?」
「ああ。倒れてたけど・・・例の薬のせいだろ。すぐに目覚めるさ」

闇の中にいる人物は、ここからは姿が見えない。
けれど、会話からして彼らのリーダーといったところか。
声だけを聞いてもまだ若い。その影がすっと動いて、彼の少年を覗き込んだ。

「・・・・・・駄目だな」
「なっ・・・どういうことだよ?!」
「こいつは死んでる。でもまぁ・・・運んどけ。ここで死なれても困る」
「死んでる・・・まさか」

そのようには見えないだろう。まだ頬に微かな朱を帯びた、温かな身体だ。

「俺を信用しねぇってのか?
 ・・・いいから運んでいけ。このまま誰かに見つかるとマズイんだよ。わかってんの?」

剣呑な声音とキツイ視線。
年下の、けれどキレると恐ろしい頭に、男たちは一斉に息を呑んだ。
誰もが目を見張る美しい顔立ちに、刃のような鋭い表情を併せ持つ彼は、仲間たちにとって時に神のような存在にも見えた。

「わ、わかってるよ、ラティ・・・」

まぁ、そんなことは今の男には分かり得ないことである。

「・・・さて」

そそくさと少年を運んで消える青年達に、影はさっさと背を向けた。
気付けば、自分のほうに彼が近づいてきている。
自分が見えているのか、と感嘆を洩らして、男はしっかり見据えてくる彼の視線を感じていた。
ぴたり、と距離2mのところで彼の足が止まった。

「あんただな」
「・・・・・・何が?」

単刀直入の問い。男は彼の潔さに微かに表情を緩めた。

「殺したの。あんただろ?」
「・・・・・・そうだ、と言ったら?」

ふいに、彼の口の端が持ち上がる。

「―――生かしては帰さないぜ」

瞬間、彼の影が掻き消えた。
前に気配を感じて顔を上げると、その直後に強烈な勢いで拳が飛んでくる。
ほう、と一言だけ感嘆の声を上げて、男は自分の顔にあたる寸前でそれを受け止めた。

「っな・・・」

不意打ちの攻撃。それを受け止められたことで、キレイな瞳に動揺が走る。
男はそのまま淡々と言葉を紡いだ。

「生憎と」

受け止めた腕を払うと、すかさず次の攻撃が襲ってくる。
ふぅ、とため息をついてこれもまた空気を少し揺らすだけでかわしてやれば、
もはや彼は動揺の色を隠せなかった。

「っ・・・」
「死ぬ気のない者と戦う気はない」

少年は決して弱くない。普通の人間相手ならば始めの一撃で全てが決まっていただろう。
けれど、今回だけは。
向けた相手が悪すぎた。
受け払った勢いで倒れこんでしまった彼に見向きもせず、男は立ち去った。立ち去ろうとした。
しかし。

「・・・っ待てよ!」

いつもならば、そんな声に振り向くことなどない。
だというのに、今回だけはなぜか足を止めてしまった自分が、なんだかおかしかった。
彼の声に抗えない何かがある、ということか。
背を向けたまま、彼の次の言葉を待った。

「なぜ・・・、アイツを殺した?!」

年端もいかぬ無垢な少年。
そもそも、簡単に人を殺すなど、この悪の蔓延るこの場所ですら認められていないのだ。
なのに、どうして見知らぬ男が殺す必要があるのだ。
彼の問いは至極妥当なものだったから、男は少しだけ表情に笑みを滲ませた。
殺す、理由。
それがなければ、そもそも他人に手をかけたりしない。

「私が殺したのではない。少年が死を望んだだけ。だからかれは死んだ」
「何を言ってる。てめーが手にかけたんだろ」
「彼が私を『呼』んだ。私と死は共に在る。ただそれだけのことだ」
「っ・・・わけわかんねぇ・・・」

そう言って立ち去ろうとする男に毒づいて。
チッ、と舌打ちをすると、彼は再度男を呼び止めた。

「おい!・・・あんた、名はなんてんだ?」

応えることなく去られるかな、とも思った。
けれど、聞いておかなくてはこちらとて気がすまない。
初めて、敗北を記した。その相手の名くらい、知っておきたかった。
男は足を止めると、微かに振り向き、そして告げた。





「・・・ファタル」









ジャンルリスト

PAGE TOP