あれは、今となってはもう昔のこと。
まだ幼く、色とクスリに溺れた、どうやら母親らしい女がいた頃の話だ。
物心ついた時から、女は邪教に身も心も奪われていた。グロテスクな偶像を拝み倒し、出入りする男達に体を売り、
赤青鮮やかな薬を常に手放せない、ジャンキーだった。自分に振り向く時間などほとんどなかった。
だから、名前をつけられたのも、家を出てからだ。
中毒で勝手に野たれ死ぬような女を何日も何日も家の外で待ち続けた、
雨の夜。D地区の研究所へと連れられたあの日、
そこで初めて、子供は名を与えられる。
つまらない名前だった。ただ、子供がしゃがみこんでいたその背後に、何年も放置され荒れ果てた庭があった。
かつては美しかったろうに、今では崩れかけ、腐り切ったラティスに背をつけていたから、だそうだ。
だが、それもただの戯れでしかなかったのか、
研究所で新たなモルモットとしての生き方を強いられたラティスがその名で呼ばれることはなく、
ただ無機質なコード番号が、長らく研究所に拘束されていた彼の識別名だった。
つまらない、過去。
つまらない、生き様。
だがラティスは、それを思い返す度にあの銀鎖のプレートを目の前に翳す。
物心付いた時から首に絡みついていたそれはどうあっても外せず、
いつしか子供は独りの時、決まってそれを眺めるようになっていた。
美しいそれは、この世のものとは思えないほど細かい細工が施してあり、
いつだって目を奪われた。飽きることがなかった。
のちにD地区が閉鎖され、自由の身になって、仲間が出来て、組織が出来上がって、
独りでいることが少なくなった少年は確かに眺める時間を減らしたが、
それでも、やはり。
過去、ひとときでも安らぎを与えられたそれを、
手放すことはできなかったらしい。
ラティスは男に手渡されたそれを、再度目の前に翳してみた。

あれほど首から離れなかったものが、どうして簡単にあの場所で落としてしまったのか、
少年にはわからない。
けれど、そもそも外れない事自体不可解なことだったしな、と
ラティスは深く考えなかった。
ただ、これを拾ってくれた男が有り難かった。
どうしようもない心の痛みに苛まされた時、何度も励まされたモノだ。
手放せない。どうしても。

「それが、お前に課せられたモノ、なんだろうな」
「・・・ファー!!」

静かな声に、ラティスははっと顔をあげた。
声のした方を振り向くと、
素肌に包帯を何重にも巻きつけた男が、ベッドから身を起こしている。
あの時死んだように意識を失っていた彼が目を覚ましてくれたことに安堵し、
ラティスは表情を綻ばせる。
素直な少年の反応に、ファタルは小さく笑みを傾けた。

「どうやら、世話をかけたようだな」
「全然。・・・俺のほうこそ、巻き込ませて、ごめん」
「気にするな。私が勝手にしたことだ」

あれほど傷を負ったというのに、男の声音も身体の動きも滑らかで、
昨日のことが嘘のよう。
男の回復力に驚くばかりのラティスは、
男がおもむろにベッドから降り、綺麗に折り畳まれた衣服を身につけ始めるのを呆けたように見つめた。
このまま、彼は帰ってしまうつもりなのか。
当然だろう。彼がここにきた目的は、あの子供だったはずだ。
彼が死んでしまった今、彼がここにいる理由はない。
男が、黒いシャツに片腕を通した。
そしてもう片方、包帯の巻かれた左腕を彼が通そうとしたその時―――

「っ・・・」
「ゴメン」
「・・・エル?」

背後から首に絡みつくように抱き締められ、ファタルは眉を寄せた。
そうして、普段の彼からは考えられない殊勝な台詞。何も言わずに次を待っていると、
ぎゅ、と強く縋りつかれて、もう一度小さく、ゴメン、と。
呟かれる。

「エル」
「・・・あの時、あんたは俺達を庇ってくれた。それなのに、俺は勝手に暴走して―――・・・、」

絡められた腕が震えている。
黙って胸の前に回された手を握り返してやると、ますます込められる腕の力。

「傷つけた。俺のせいだ」
「違う」
「違わない。あんたがいなければ、俺達はもっとひどいダメージを受けてた。すまない。何にも、気付いてなかった」
「・・・」

聞く耳を持たない少年に、ファタルは静かに目を閉じた。
背後の彼は、泣いているのか。本当は、彼はなにも悪くないというのに。
彼が我を失うほど暴走してしまったその理由も、すべて、敵方の組織の残酷な演出のせいで、
誰だってそれを目にしたなら怒りを覚えて当然だ。
だが、結果彼は、己の大切な者たちまで犠牲にしてしまうところだった。
すんでのところで止められたとはいえ、それは正気に戻った彼にとって、後悔してもし切れない出来事だろう。
普段の威勢などどこにもなくうな垂れる少年は、
ファタルにはひどく哀しい存在に見えた。

「気に病まなくていい。それより、これからのことを考えろ。お前は、守りたいのだろう?」
「・・・・・・」

忘れていたわけではなかった。
あの時、敵対勢力であるVIOLENTSは、確かにこちらを潰すつもりで、かなりの人数を回していた。
本気であることは、誰の目にも明らかだった。
何がどうなったかわからないながらも、結果的に壊滅は免れたが、
それでもこのまま普段通りに過ごしていられないのも事実。
だが、それより先に、どうしても気になることがある。

「・・・なぁ、あの時、VIOLENTSの奴らをどうしたんだ?気付いたら、誰もいなくなってて」

まさか・・・消してしまった、なんてことがあるのだろうか?
自分の理解をはるかに超える現象ではあるが、
この男に出会ってからというもの、ラティスには不可解なことばかりだったから、
彼にはなんでも有り得る気がした。
男は苦笑した。まさか、とでも言いたげな顔だ。

「死を望まぬ者に、死を与える力は持ち合わせていない」
「・・・・・・つまり、生きてるってこと?」
「ああ。」

ファタルの言葉に、ラティスは考え込むように眉を寄せた。
まったくもって、理解に苦しいことばかりだ。あの時消滅したはずのVIOLENTSの者たちは、
実はまだ生きているという。ラティス自身、単純に彼らの死を望んでいたわけではなかったからそれは良いのだが、
ならばまた、彼らはこちらに攻めてくる可能性があるではないか。
大被害は免れたとはいえ万全の状態ではない今のままでは、本気で攻めてこられれば存続は危ういだろう。
元々、全面戦争など望んでいなかった。
どちらも本来は、このD地区で実験体を強いられてきた者たちであり、
そんな運命から逃れるために反乱を起こし、そして今のこの閉鎖地区が出来上がったのだ。
別に、馴れ合いには興味がなかった。だが、わざわざ作り上げた組織を互いに潰し合うほど、
そこまで敵対視する必要はないのではないかとラティスは思うのだ。
だが、こちらがどう考えていようと、あちらには関係ないらしい。
現実にいざこざは絶えることなどなく、末端同士の殺し合いなどしょっちゅうだ。
結果的に、ラティスのように考える者は減り、睨み合いが長く続いている。
それに、VIOLENTSは強引に幕を引こうとしているのか。

「まぁ、ここ1週間は大人しいと思うがね。
 私がかれらに施したのは時間軸の異動だけだ。対処なら、この週のうちに考えておくことだな」
「ファー・・・」

淡々と、だがさりげなく気遣うような言葉をかけてくる男が、
ラティスにはどうにも不思議でならない。
なぜなら、本来、彼はあの北の廃墟でひとり。誰とも関わることなく、ただ生きていたような者ではなかったのか。
自分達に何ら関わりのないはずの、男。ましてや死にも近くない、自分となど、
どこに関係があったというのか。
先に彼に踏み込んでしまったのは、自分だった。
だが、彼は拒まないどころか、気付けば与えられていた。
自分が一番望むもの。自分が一番大切なものを、彼は身体を張って守ってくれたのだ。
もはや、理由など考える意味もなかった。
ただ、わけのわからない、胸の奥が熱くなるような感覚が、
止まらないどころか、ひどく強くなっていく。
男は、今だしがみ続けるラティスの腕を静かに下ろさせると、再び衣服を身に着け始めた。
胸が、苦しかった。熱くて苦しくて、下手をすれば痛い程。

「もう・・・、行くの?」
「・・・ああ。ここには少し、長く留まりすぎてしまったからな」
「・・・・・・そ、う」

何も、言えなかった。たった一言、心の奥底に燻っている言葉を告げればいいことなのに。
だから、ファタルはその代わり、再度男に手を伸ばした。
ぐい、と腕を引いて、そのまま向かい合わせになった男の首に縋り付く。
勢いで、どさり、とベッドに男の背が沈んだ。ラティスの読めない行動に、男の眉が寄せられる。
男の肩に顔を埋めるラティスは、小さく震えていた。

「・・・・・・エル・・・?」
「・・・抱いてよ」

ひどく、真剣な声音だった。
ファタルは拒むこともできずに、軽くため息をつく。自分の上に乗り上げる少年の、
肩先がこの間よりひどく幼く見えて、男はそっと右腕を彼の背に添えてやる。
そのまま、力を込めてやれば、漸く安堵したように目を閉じるちっぽけな存在。

(・・・まったく)

心の中で、そう小さく呟いて。
くらり、と彼の放つ色香に眩暈を覚えたファタルは、
触れてはいけない己の禁忌に、ゆっくりと手を差し伸べた。















Update:2006/05/05/WED by BLUE

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