微睡みの中で



仕事が、まったく終わらない。グレンは自分の執務机に積み上がっている書類を見ながら、ウンザリとため息をついた。
ここまで溜まってしまったのは、無論自分がサボっているからではない。いや、正確にいうならば、つい先ほどまで表に出ていた、もう一人の自分のせいではあるのだが。グレンは顔を顰め、思いっきり溜息をついた。
あちらの自分は、基本的にデスクワークというものを一切やらない。もちろん我が侭を言うな、と普段から窘めているが、特に今回は例の《終わりのセラフ》の実験体がよい結果を出したため、それに夢中でなかなか身体を手放してはくれなかった。
彼は興味のあるものには貪欲で、特に知識欲や探究心には際限がない。強さにも。いい研究結果が出れば、それを直接試さずにはいられないタイプで、今回もかなり長い間身体を支配されていた。
逆に自分は、やはり人間の子供たちを使って行う実験には抵抗があり、どんな大義名分を掲げてみたところで、痛む心を抑えられない。そんな他者に甘く弱い自分が表に出れば、つい途中でやめさせてしまうかもしれない、と思う。
だから彼の存在はそれはそれで有り難かったのだが、それにしても、今回はまる一日、というほど彼にばかり支配されていて、戻ったのは本当につい数十分前だった。
というのも、深夜が執務室に押しかけてきたからだ。

(・・・深夜)

柊深夜。この帝鬼軍を総べる柊家の養子で、柊真昼の元婚約者で自分とは長くそれなりに深い関係にある彼は、今、執務室のソファで本を読んでいる。本の内容は、たしか・・・虚無がなんとかと言ったか。なんだか難しい探偵物だった気がするが、興味がないからわからない。
それでなくとも、グレンは明日の昼過ぎの会議までに準備せねばならなかったから、今日は相手できないぞ、と断ったのだが、それなら終わるまで待ってる、と深夜は言い張り、そうしてここに居座っているのだった。

「・・・・・・はぁ」

グレンは大仰に溜息をついてみせた。いっそ、自分でこの状況を脱しろ、と言いたいのだが、こういう時はさっと主導権を手放す彼の性格は、本当にイライラする。
もう一人の自分は、深夜の扱いが非常に苦手だった。
面倒なのだ。こういう人間関係が。
感情に振り回されて効率のいい方法を進められないもどかしさ。馴れ合いに一つの価値も見出してない彼。それは正に最初の頃の自分と同じで、やはりうんざりしてしまう。
結局、彼は『自分』なのだ。
最初の頃、自分はうざったく自分に絡んでくる深夜がとにかく面倒くさくて、なんとかほっといてもらえるよう、必死に演技をしたものだ。もちろん、それが上手く行っていたのは百夜教の襲撃のせいで二ヶ月もなかったのだけれど。
今では、彼は自分を好きだと言ってくれるし、自分もまた彼を愛している。もう一人の自分が馬鹿にする声音が聞こえてくるが、こういう不毛な時間こそが今の人間には必要で、自分にもまた、殺伐としたこの世界で生きていくためにも癒しは必要だった。
彼は自分が欲しいと思う時、必ず傍にいてくれた。気張るのに疲れて甘えたい時も、たまには仲間を集めてゲームをするときとかも、わざわざ呼ばなくても彼はよく自分の下で尽くしてくれていて。そういう、鬼の好まない、ささやかな欲望を満たすのには彼の存在が一番で、グレンは深夜の存在を非常に大切に思っていた。
だが、もう一人の自分にはどうやらそれが気に入らないらしい。そんな足踏みをしている暇があったら先に進めと、何度も訴えるそれを適度に無視し、自分はこうして彼と馴れ合いを続ける。
人間としての心が、どんどん削られていってしまうのは仕方ないとは思っているが、それでも少しでも長く、人間でいたいと思ってしまう。
せめて、自分が死ぬまで。
生きている間は、主導権を完全に奪われるつもりは、グレンにはなかった。

「ちっとも、減ってないじゃん」
「ん?ああ・・・」

深夜は顔をあげて、一向に減らない書類を見遣る。
折角僕が待ってあげてるのに、と不満そうに言う深夜を適当に窘めて、グレンは報告書を何枚も読みつつ更に会議用の報告書をまとめる。これが結構骨が折れる作業だった。
深夜に手伝わせるわけにもいかず、とりあえず机にあるブラックコーヒーを煽り、そうして真面目に書類を睨み付けてなんとか報告書を作っていく。
一時間ほど集中して、自分の頭の身長ほどあった書類が、少しは減っただろうか?ふと、深夜のほうを見遣ると、先程まで小説を読んでいた深夜が、今は何やらうつらうつらと舟を漕いでいる。
時折膝の上に、手から滑り落ちた本を落としては、はっと目が覚め、欠伸を噛み殺し、そうしてまた読み始める。書類の影に隠れて様子をうかがっていると、どうやらそれを何度も繰り返していて、その度に同じページを読み返しているらしく、一向に進んでいないようだった。
まったく、大人しく諦めて寝てしまえばいいものを。
先程も、時間がかかるから仮眠室で寝ていろ、と気遣うように言ったというのに、ソファで待つ!!などと言い張るからこうなるのである。

「まったく、どいつもこいつも勝手だよな・・・」

はぁ、と立ち上がって、仮眠室から手触りのよい毛布を一枚持ってくる。うつらうつらと半分寝ぼけている深夜に、ばさりとかけてやると、また目が覚めたのか、びくりと顔をあげた。

「・・・グレン・・・?」
「ほら」
「・・・あ、毛布」
「風邪引くから。ちゃんと被ってろ」

書類は半分は減っていたが、それでも終わらせるまでにはゆうにあと一、二時間かかるだろう。となれば、きっと夜間にいくら着込んだ軍服でも寒くなってしまう。
本当は、素直に簡易ベッドで寝ていてくれてもいいのだが、
意味のわからないところで頑固な彼は、きっとここにいると言い張ったままだろう。
だったら、せめて毛布でも被ってもらうしかない。

「うん・・・ありがと。グレン」

深夜はぎゅ、と毛布を握って、胸元まで引き寄せる。それから改めて彼は小説を読み始めるものだから、まぁいいか、とグレンも再び書類に意識を戻した。
とりあえず、早く終わらせねばどうしようもない。
一心不乱に書き殴るようにして原稿を作り、そうして書類を確認し終わる頃には既に三時を回っていた。内容を読み返せば、きっと寝ぼけた頭で作っただけあってめちゃくちゃな文だろうが、校正は明日だ。まぁそのまま会議 本番かもしれないが。
漸く終わった、と肩を回して、一つ伸びをして、それからあたらめて深夜を見遣る。

案の定、ソファの上の深夜は眠っていた。
肩までかけた毛布が傾いていて、だらりと右手がソファの横に垂れている。そうして持っていたはずの手元の本は手の中からころりと転げ落ち、床へ投げ出されている。
首を軽く横に傾け、軽く唇を開いて寝息を立てている彼に、苦笑してしまった。
まぁ、寝てしまってもしょうがない時間だ。
本当は自室に戻るつもりだったが、このまま仮眠室で二人して眠るしかないか、と思う。ベッドが狭いのが難点だったが、このまま彼を起こしてしまうのも忍びない。

「・・・ほんと、静かにしてりゃ綺麗な顔してんのに」

さらりと手触りの良い彼の銀の髪を指先に絡めて、そうして、伏せられた瞼や、長い睫を眺める。昔はウザい顔だとばかり思っていたが、こうやって静かにしていれば本当に整った顔立ちで、しかも成長するほどに驚くほどの色気を漂わせてきた。
彼はそれなりに深い関係を続けてきた自分のせいだ、とからかい交じりの文句を言うが、素質がなければこうはならない。
漸く仕事が終わって、確かに疲れている。だがそれでも、少しくらい彼の甘いキスの味を確かめてもバチは当たらないだろう。
グレンは、彼を起こさぬよう軽くソファに手を付き、そうしてゆっくりと唇を重ねた。乾いた唇を濡らす様に、舌で彼の唇を舐めて、そうして柔らかな感触を確かめる。深夜は苦しいのか、少し、身じろぎをする。
最初は軽く唇を重ねるだけのつもりだったのだが、久しぶりの感触に、少し心が高揚していた。ここ数日は、例のもう一人の自分が表に出ていたせいで彼に構ってやれなかった。だからこそ、深夜も粘っていたのだと思う。そんな彼の健気な部分も、自分は好きだった。
一度唇を離して、それから改めて体勢を変えてディープキス。
歯列を割り、濡れた舌を絡め取ってそのまま吸い上げる。目の前の深夜の眉が顰められ、そうして睫毛がぶるりと震える。うっすらと開かれた蒼の瞳に、けれど更に深く体液を共有する。
深夜は少し驚いた顔を見せたものの、すぐに再び瞳は閉じられ、そして彼も自ら意志を持って舌を絡めてきた。
深夜の腕が、男の背に回され、そうして力が篭る。
身体が熱くなる瞬間だ。深夜の胸元に置いていた本が、再び床に滑り落ちる。

「っ・・・は、ぁ・・・」

漸く唇を離すと、はぁはぁと息継ぎをしている深夜。どうやら寝起きだというのに、深すぎるキスをしてしまったらしい。
少し涙目の彼は、咎めるように自分を見上げてくる。

「もぅ・・・仕事は、終わったの・・・?」
「・・・ああ、・・・」

声音はまだ眠そうだ。瞳もとろんとしていて、グレンは起こしてしまったことを少し後悔する。自分に甘えるようにく首に両腕を捲きつけたままの深夜を、毛布ごと抱えるようにして抱き上げる。

「ベッドに行くぞ」
「・・・ん・・・優しくしてね・・・?」

一段と幼い口調。まったく、二十三にもなって一気に少年に戻ったかのようだ。
初めて彼を抱いた頃は、確かに彼はまだまだ初心で、毎回、怯えたように瞳を揺らしていた。もちろん、その時は彼も我が強かったから、口では強がってばかりいたのだが。

「・・・まったく、世話が焼けるな」
「グレンもね・・・」

寝ぼけて言っているのか、寝言で言っているのか。瞳を閉じたままでそういう深夜に苦笑する。一人分の堅いベッドだったが、彼の身体を横たえて自分もまたベッドの端に座り込むと、
そのまま襲ってしまいたい衝動に駆られた。
彼の軍服の襟元を緩め、意図を持ってボタンをゆっくりとはずしていくと、深夜が身じろぎする。

「・・・グレン、駄目・・・やっぱ眠い・・・」
「お前は寝てていいぞ」
「・・・何それ、勝手だなぁ・・・まぁいいけど」

しょうがないなぁ、と腕を伸ばして子供をあやす様に自分の頭を撫でてくる深夜に少しだけ顔を顰めながらも、肌蹴させた肌に顔を埋める。
こうして自分に甘えてきたり、逆に甘えさせてくれる彼は、
本当に自分にとっては大切な存在で、やはりなんとしても失えないものだった。
必要とされている、という実感。
それが唯一、こんな壊れてしまった自分をこの世界に繋ぎとめるものなのだと思った。
そしてそれが何より、幸せだと感じられるのだ。
できることなら、ずっと、守りたいと思う。
馬鹿げたことだ。こんな、世界が崩壊し、人間が極端に減り、吸血鬼に家畜にされている世の中で、馴れ合いや安らぎをこそ大切にして、それに浸っているなんて。
だが、それこそが、『自分』がまだここに存在していられる理由だった。

『また、そうやってお前は、何もかもを抱え込もうとする』

咎めるような口調に、グレンは苦笑した。
かつて、何度も何度も自問自答してきた言葉だった。だからもう既に答えは出ている。

「性癖でね」
『本当困った性格だよ。手放せば楽になるとわかっていて、なおも手放せない。しかも、その理由が、普通の人間のように、自分の弱さを隠すためかと思いきや、そうじゃないときた。
 それなのに一度も後悔したことがないとか、馬鹿としかいいようがないな』

もう一人の自分の声音は、まったくもって正論で、思わず笑いそうになってしまう。
何度も何度も葛藤した。手放すべきか、それともしがみ付いてでも守るべきか。悩んで、悩んで、悩んで、そうして、結果、自分はしがみ付くほうを選んでしまった。

「趣味なんだよ」
『大切な物に命を懸けることが?』
「知ってんだろ。馬鹿だとは思ってるが、仕方がない」

グレンは自嘲するように笑った。
全てを諦めたくないのだ。
戦場にあっても、どんな過酷な環境でも、どれだって大切だ。何一つ諦めたくない。
確かに、切り捨てれば上手く行くことなんて沢山ある。逆に、そうしなければ失敗することだってあるだろう。
だが、最後のぎりぎりまで、諦めない。
自分の命も、大切な人間の命も、家族も、仲間も、部下も、すべて。
最後の最後まで、皆が生き残れる方法を、模索する。そう、これは、自分なんかに付いて来てくれた皆への恩返しなのだ。
かすかな寝息を立てている深夜の頬を撫でて、そうしてグレンは愛おしげに目を細めた。
こんな自分の宝物を、どうして手放せるだろう?
既に彼は自分だった。骨であり、肉であり、心臓であった。
誰が自分の身体の一部を、わざわざ切り捨てることができるだろう?
彼の身体を抱き締めて、そうして自分も身体を横たえる。
今は欲望より、どちらかというと彼の温もりが愛おしかった。
このまま寝てしまってもいい。彼を抱き枕にして、久しぶりに自分は落ち着いた眠りにつけるだろう。

「寝る。お前は出てくんなよ」
『でるかよ。こいつ起こさないで動く自信ないわ』
「あと、勝手に喰うなよ」
『喰わねぇよ・・・』

呆れたように言うもう一人の自分に、はは、と笑って、グレンは深夜の温もりに浸る。
このまま眠って、明日の朝に彼が目を覚ましてから身体を繋げてもいい。それか、会議の後、彼の部屋に押しかけてもいい。
少なくとも最近はまだまだ平和で、これが一生続けばいい、とグレンは切に願ってしまう。
いつかは傷つけてしまう、そんな時が来るかもしれないけれど。それでも、それはきっとまだまだ未来の話。
時が止まればいいと思う。
そんな不幸な未来なんて、一生こなければいいのにと、グレンは思う。もちろん、そんな甘い世界でないことくらい、わかっているけれど。

「すまないな、深夜。俺はお前の泣き顔なんて見たくないんだが・・・その時が来たら、思いっきり殴ってくれ」

きっと聞こえていないであろう彼に囁いて、そうしてぎゅ、と力を込めて抱きしめる。
そうして、彼もまた、つかの間の休息に身を委ねたのだった。




end.






Update:2015/12/14/MON by BLUE

小説リスト

PAGE TOP