幻想



 空調の音が小さく空気を震わせていた。
 低いその音が鼓膜に纏わりつくような感覚にクルーゼは小さく眉を顰めた。普通建物では機械音などは人の耳に入らない程度にまで抑えてある。特にこの部屋は居心地の良さに最大限に気を遣っているはずだというのに、まさか機械が故障でもしているのだろうか。
 ここまで考えて、彼は自分の考え違いに気付いた。故障ではない。自分が過敏になりすぎているのだ。
 仮面に隠された表情の変化は見えなくとも彼の感情のざらつきを感じたのか、向かいのソファに腰掛けていた男が彼に声を掛けた。部屋には彼ら二人の他には誰の姿も見えない。二人だけで使用するにはその部屋は広すぎるように見えるが、男がプラントの国防委員長であると考えればそれも当然であろう。
「どうかしたかね?」
「いえ。
 …素晴らしい眺めに感嘆しておりました」
 感情を悟られたことに対する若干の動揺を隠して彼は微笑を返した。その台詞はあながち只のごまかしでもなかった。彼らの居る部屋はプラントの最上階に近いところにあり、一面ガラス張りの窓の下に広がる光景は青と緑が光に照らされて美しい色彩を見せていたからだ。
 科学と自然とを融合した理想的なこの世界が人類によって作り得られると一世紀前には誰が想像できたであろう。
 男も眼下に広がる景色に満足げに息を漏らした。
「ああ。美しい…人類の叡智の結晶だ」
 男はコーヒーカップを手にとり一口すすった。きらりと鋭い光がその瞳に現れる。
 その光に応えるように、クルーゼも微笑を深くした。
「我々は守らねばならん。この美しい世界を」
 そして我々…コーディネーターは更なる進化の道を辿るのだ。
 がしゃんっ。
 カップが乱暴にソーサに戻される音が、空調音を切り裂いた。男の握られた拳が震えていた。
 地球連合軍によってユニウスセブンが壊滅させられたのは、つい先日のことだった。核兵器による不意打ちの攻撃で生存者はゼロ。目の前の男の妻もその犠牲者の一人なのだとクルーゼは知っていた。そのためか元々の思想なのかははっきりしないが、男はプラントの中でもきっての軍事拡大論者だ。…クルーゼが取り入り、思うよ うに動かすには最も都合がいい。
「ええ。仰る通りです」
 クルーゼはゆるく頷いて立ち上がった。彼の瞳に浮かぶ軽蔑しきった光は遮られて男まで届かない。先程のように感情の波を悟られるような真似はしなかった。
「能力の劣る旧人類であるナチュラルは滅びねばなりません。そしてコーディネーターに自由な未来を拓けるのは閣下だけです」
 男がぴくりと眉を動かした。引き締められた唇はその強い意思を示している。
「無論だ」
 その隣まで近付いて、クルーゼは男の耳元に唇を寄せた。
「――私が閣下の手足となりましょう」
 囁くような低い声が男に与える効果を彼は知っていた。彼の予想通り男の腕が伸ばされる。引き寄せようとする力にクルーゼは逆らわなかった。

 男の堅く結ばれた唇に、彼の唇が重ねられた。





 空調音が聞こえていた。
 喉からはひっきりなしに声が漏れて煩いぐらいだというのに、何故まだ消えないのか。もう本当に聞こえているのか自分の中でだけ響きつづけている音なのかの判別がクルーゼにはつかなかった。男に委ねた身体を放ったまま思考の中に入り込もうとした彼を、伸びてきた腕が遮った。
 その腕は彼の顔を覆う仮面を外そうと動く。その腕を彼は抑えた。彼の纏っていた衣服のほうは既に乱れほとんどその役割を果たしていない。今まで行為に全く抵抗を見せず、なすがままだった相手の制止に男は訝しげに眉を持ち上げた。
「…私はこの仮面を外すわけにはゆきません」
 気を抜くと乱れる息を堪え、彼は一息でそう吐き出した。
「何故かね?」
 掴まれていない方の男の左手は、遠慮なしにクルーゼの深部を探り、抉ろうと動く。クルーゼは、その刺激に耐えるため仮面の下できつく目を閉じた。男の腕を掴む指に一層の力を込める。
「これは私の個を抑えるもの。今は…戦争中である今は外すわけにはいきません」
 代わりのようにクルーゼは、男の指先に口付けを落とした。それを見た男は可笑しそうに笑う。
「人類の未来のために己を殺す、というわけか。君でもナチュラル共の命を奪うことには躊躇いを覚えるのだな。そんな情けが君にあるとは思ってもみなかったが」
 男の腕が仮面を外すことをあきらめて離れ、クルーゼの中心へと伸ばされた。突然の衝撃に思わず彼は声を漏らしてしまい唇を噛んだ。
「っ…そう、でもありません」
 その様子を見た男が満足そうに呟く。
「それでは君はいつになれば私に素顔を見せてくれるつもりなのかな」
 それは問いかけというよりは独白のようだったが、クルーゼは唇を笑みの形に歪めた。
「――勝利を手にするそのときには」

 その低い声は、男の背筋に震えを走らせた。





 男が去ったあとの部屋は静寂で満たされた。
 残されたクルーゼはベッドに仰向けに横たわったまま、仮面に手を掛けゆっくりと外した。その下から表れた整った顔に浮かんでいるのは嘲りの色。
 それは手の中の仮面を瞳に移すと一層色濃くなる。
「………愚かな男だ」
 そう呟いて顔を顰めた拍子にふと青い色が彼の目の端に入った。首をそちらに向けると、ガラス越しでも真っ青な空が視界いっぱいに広がる。偽物の空は、それでも目に痛いほど澄み切っていた。
 そこから連想ゲームのように浮かんできた青い瞳を彼は頭の中で叩き潰した。かつて限りなくゼロの距離で覗き込んだ、ひかり。



 今は遠い。



「く…っ、あ、はは…」
 酷使している身体が軋みを上げている。
 シーツで堰き止めようとしても溢れ出す笑いにクルーゼは肩を震わせた。

















Update:04/01/TUE by SOUNO KURYOU
Update:2003/04/01/TUE by SOUNO KURYOU

小説リスト

PAGE TOP