鬼の欲望、人の欲望。



初めて<<鬼呪>>に触れた時、自分には何もないのだ、と思い知らされた。

鬼は、人間の欲望を糧として力を発揮する。故に、<<鬼呪>>の研究が進んでいなかった頃は、
鬼に触れた人間は、なす術もなく自覚すらしていない本能的な欲望を暴走され、破壊の限りを尽くし、
また、それ以前に器の小さい者は、悉く凄惨な死が待っていた。
だが今、<<鬼呪>>は9割方完成されたといっていいだろう。
鬼の嫌う呪詛を練り込み、鬼の暴走を無理矢理鎖で何重にも抑えつけ、
か弱い人間にも扱えるように調整された『鬼』の力。
しかしそれでも、鬼を屈服させ、その力を自由に扱うには、己自身の願いや欲望、強い意志と向き合わねばならなかった。
意志なき者、鬼に認められなかった者は、鬼の力に呑み込まれ、自我を食い潰されていた。
だから本当は、自分だってそうなるはずだったのだ。

(本当に、自分には何もなかった)

くすりと笑って、深夜は、数か月前までのへらへら笑うだけの自分を思い出す。

物心ついた時から、ただ強くなることばかり期待され。
子供が親を信じ切るのと同じくらいに、『帝ノ鬼』を妄信し。
『柊』を盲信し、そうして生きてきた。
だから、神に等しい柊真昼の婚約者として柊の名をもらったその日、
けれど彼女の心を手に入れることは不可能だと知ったあの日、
自分には何もないのだ、と悟ったのだ。
ただ、利用されるだけの存在。
彼女の為に仲の良い婚約者を演じるだけの意志なき傀儡。
いつだって、自ら強く望んだことなんてない。
戦いに明け暮れた理由だって、いたって単純なものだ。死にたくない、ただそれだけのために
強くなった。強くなる理由すら、誰もが持っている生物学的な本能でしかなくて。
柊の名を持つ操り人形を演じながら、深夜はぼんやりと考えていた。
今は、生きる理由がある。
この世界に繋ぎ止める鎖が、辛うじて足首に絡みついている。
だが、いつかこのしがらみから抜け出せたら?
その時自分は、なにを求めるだろう?
柊の支配から逃れたいと望んでいながら、しかし深夜にはその後のビジョンはなにもなくて、
そんな自我のない自分に、こっそりと溜息を吐いた。
けれど唯一、心を動かされたものがある。

「グレン」

名を呼んで、顔を向ける。
部屋に入ってきた彼は、暗闇に佇む少年に驚くと同時に、ひどく険しい表情を向けた。
美十や五士と共に帰ったはずだった。確かにその背を見届けたはずなのに、
けれど深夜は気にせず、壁際で静かに微笑む。
隣の部屋には、おそらく従者の2人がいる。
だが、今日は深夜は、自分の家に帰るつもりはなかった。

「お前・・・」

瞬間的に、刃が閃き、間合いを詰められる。
1週間前までの彼のスピードも早かったが、今では桁違いに早い。
<<鬼呪>>を受け入れた自分でなければ、目で追うことすらできなかっただろう。
実際、今でもほとんど反応できなかった。
顎を取られ、壁に押し付けられる。首筋に、冷たい刃の感触。
鬼の刀。だが、殺すつもりがないのは分かっている。
少なくとも、理性が働いている彼ならば。

「何しに・・・」
「ねぇグレン。この間、僕に刀を向けたとき・・・どう思った?」

グレンは目を細めた。
一体こいつは何を聞きたいんだ、と思う。
あの時の自分の暴走は、正直、思い出したくもないことだった。
無論、<<鬼呪>>を完成させるために必要ならば仕方がないとは思うが―――
少なくとも今、この少年に問われる意味がわからない。
少しだけあの時の事を思い出して、グレンは唇を噛み締めた。
引きずられそうになる。
鬼呪の鎖が鬼の力を封じているから、あの時のように身体が暴走することはない。
だが、頭の中が破壊衝動に埋め尽くされそうな感覚は
忘れようにも忘れられるものではなかった。

「・・・いつもと、変わりねぇよ」
「あは。殺したいって?」
「うぜぇ、邪魔だ、失せろ、ってずっと思ってたぜ」
「今も?」
「今も同じだ」

嘘だ。
と、今の自分にはよくわかっている。
確かに今、こんな夜中に、夜這いよろしく部屋で待ち伏せされるのは
非常に迷惑であるし、邪魔といえば邪魔なのだが、
あの時、彼がいてくれたおかげで、辛うじて自分を取り戻せたのは事実だったし、
感謝もしていた。
無論、口に出すのは大いに気が引けるが。

「なら、どうして殺さない?今なら、できるはずだ」

挑発的な科白。確かに、今なら、不可能ではない。
相手は柊かもしれないが、今までのように高校生活を悠長に送っているわけではない。
『帝ノ鬼』だって、大して役に立たない柊家の養子がどうなろうと、
この状況ではおそらく気にも留めないだろう。

「・・・殺されたいのか?」
「君がそう望むならね」

グレンは、はっ、と笑った。

「鬼みたいなことを言うな」

あの時鬼は、圧倒的な破壊衝動をグレンにもたらした。
すべてを破壊し尽くし、殺し尽くして、血に染まった世界のすべてを屈服させたい。
それは、暴走する自分を前にした深夜に対しても、そう思った。
殺したい。刀で真っ二つにして、血を噴き出させ、その朱く染まった肉を引き千切りたいとすら
思ったのだ。まともな人間ならば、決して頭に上らないような畜生にも劣る欲望。
だがそれは、一時の快楽を得るためだけの殺意であって、
結果に意味のあるものではないのだ。
今更、自分がこいつを殺したとして、何の意味もなかった。

「で?
 俺をまた暴走させて、お前に何の得がある」
「ないねぇ。どうせその時には、僕も死んじゃうし?」

はは、と肩を震わせて笑う深夜の首に、赤い筋が引かれた。
一瞬の後、溢れ出す血の感触。未だ首筋に触れたままのグレンの刀が、
薄い皮膚を切り裂いたのだ。
鬼の黒い刀が、血の味を覚えて、自らの存在をアピールするかのように妖気を増した。
どんなに足掻いても、結局己に染みついてしまった『鬼』には勝てないのだと頭の中で言われた気がして、

「・・・っ」

グレンは頭を押さえた。
からん、と音がして、足元に鬼の刀が転がる。
白い陶器のような肌に、鮮やかな血の色。暗がりでも、グレンの目には赤々と映っていて、
あの時のように欲情しそうになる。吸血鬼でもないのに血を見て身体が疼くなど、
どうかしていると思う。
やはり、何の予防措置もないまま、鬼に触れたのは致命的だったのか。
鬼呪でどれだけ抑え込んでいても、自分の中に混じってしまった鬼はもう手遅れなのか。

「やっぱり、君の中の鬼は『トクベツ』だね、グレン。
 僕が触れた鬼が怯えるくらいの破壊衝動。それでも、理性を完全に手放さなかったおまえはすごいよ」
「・・・理性なんて、ほとんどなかった」

吐き捨てるようにそう言って、溢れ続ける血の色から目を背けた。
壁に抑えつけていた手を離す。人間離れした力は、深夜の首にくっきりと指の痕を残していた。
情けない話だ、と思う。
今はまだ、少し刺激されるだけで簡単に“人”であることを見失いそうになる。
相手が深夜ならば、まだいい。
いつか、自分が守りたいと思う彼らにまで魔の手が伸びたら?
完全に自分の中の鬼を制御するには、まだ当分、時間が必要のようだった。

「ねぇグレン」
「なんだよ」

顔を見ずに足元の刀を拾い上げ、男から背を向けようとして、

「僕が<<鬼呪>>に触れたとき、何を見せられたと思う?」
「・・・―――」

それには少し、興味があった。
自分は直接、鬼に触れてしまった。それ故に、人間の原初の欲望から増幅させられ、
今現在の自分の野心や欲求に対する意識は二の次だったように思う。
だが、柊暮人のいう、安全マージンたっぷりの<<鬼呪>>は、
どのようにして鬼を屈服させているのか、気になった。
もう、自分では試せないものだから、尚更。

「何にも。空っぽだよ。
 君みたいな、鬼が好みそうな野心なんて、僕にとっては口だけのただの言い訳に過ぎなかった。
 ・・・知っちゃいたけど、改めて思い知らされると、結構キツくてさ」
「・・・・・・」

だろうな、とは流石にグレンも言えなかった。
別にまったく興味はなかったのだが、彼に付き纏われて数か月、
彼が自分から好き好んで自分の過去を語っていたものだから、深夜の心情はある程度は量ることができた。
だが、では彼は、どんな欲望を抱いて鬼を受け入れたのか。

「真昼にでも、未練があったか?」
「いや?強いていうなら、寝取られた相手への恨みつらみかなぁ?」

冗談めかして笑う。男は目を細める。
馬鹿なことを話していたが、深夜はグレンのシャツの襟元を掴み、引き寄せた。
間近に迫る、理知的な男の顔。
ついこの間も、こんな距離のまま、1時間近く寄り添っていた。
ひたすら、彼が再び“人間”を取り戻すのを、息を殺して待ち続けていた。
あれほど、心から願ったのは初めてかもしれないと思う。
唯一、心を動かされた存在。

「・・・君しか、映らなかった」
「はぁ?」
「僕が力を手に入れる、理由だよ。
 おまえを殺したいのか、それとも守りたいのか、力になりたいのか、よくわからなかった。
 ―――けど、」

言葉を切り、目の前にある、不可解な表情を浮かべる男の唇に己のそれを重ねる。
きっと、こうでもしないと、躱されるだろうと思ったから。
そもそも、この男の従者があからさまな恋心を隠しもしないでいるのにまったく取り合わずにいるのだ。
鈍感、なのではないだろう。欲望だって、ないわけではないだろうに。
そう、ただ、彼はとてつもなく意志が固いだけだ。
己の野心を貫くために、そのほかの己の欲求をすべて犠牲にした。
そうして何より、それを後悔するような男ではなかった。
ぐっと肩を掴まれ、指が食い込む。深夜は痛みに顔を顰めた。

「お前も、そういうくだらない話かよ」

うんざりしたように嘆息するグレンに対し、
深夜は肩を竦めて、

「女の子相手よりは、気が楽だろ?」
「・・・鬼は、愛や友情、弱みになる甘さが大嫌いなんだぞ」

甘さや弱さは、鬼に付け入られる隙を与える。
グレンはそれを身を以て知っていた。守りたいもの、壊したくないものをこそ、
鬼は壊そうと誘惑してくるのだ。
まして既に鬼が混じってしまっている自分には、逃れられない誘惑。
彼の守りたいものは、既にもう切り捨てられないレベルにまで彼の中で大きくなってしまっていたから、
尚更。

「知ってるよ。
 だから、ちょうどいいんじゃない?君だって、これで人間を保てるでしょ」
「・・・しがらみは、お前らの存在だけでもう十分なんだがなぁ」

諦めたように頭に手をやり、天井を見上げる。
改めて目の前の深夜を意識すると、予想通り、この前と同じように壊したい衝動がこみ上げてきた。
だが、前とは少し、違う。
ただ刀で切り殺し、血を流させ、息の根を止めたいとは思わなかった。
<<鬼呪>>の力のおかげで、既に首元の傷は塞がっていた。
そこに、もう一度歯を立てる。
びくりと、腕の中の彼が身を強張らせたのがわかった。
ここまでくれば、主導権をこの少年に握らせるつもりはない。
わざわざ自分の部屋にまで忍び込み、自ら告白めいた感情を吐露してきたのだ、
本当は、十分に嗜虐心をそそられていた。
ただ、彼を抱こうとすることで、
己の欲が暴走を始めるのではないかと少し不安だっただけだ。

―――『そうそう、たまには素直になりなよ、グレン』

自分の中の『ノ夜』が、そう囁いた気がした。
だが幸い、彼はそれ以上の干渉をする気はないようだった。
グレンは久々に、己の劣情に身を委ねた。










「―――ところで」

深夜の身体を己のベッドに押し付けて、シャツの合わせ目に指を差し入れながら
グレンは思い出したように尋ねてみた。

「お前、こういう経験はあるのか?」

本当は、自分だって数える程しかないからなんとも言えないし、
ましてや男相手となると完全に初めてである。
知識がないわけではないが、実戦経験があるのとないとでは別である。
覗き込まれるグレンの視線に微かに頬を染めた深夜は、唇を尖らせて横を向いた。

「・・・あると思う?」

8歳の時、柊家に連れてこられて。
当主候補の1人である柊真昼の種馬として扱われて。
ただ、彼女に相応しい男になるよう、厳しい訓練を与えられる日々。
高校入学当時、へらへら笑っていたのは、軟派な男だったからではない。
そうしてのらりくらりと躱すしか、生きる術がなかったからだ。

「ま、あのまま平和に過ごせてたら、そろそろ種付けの訓練ーとかで可愛い子宛がわれてたかもねぇ?」
「・・・馬鹿が」

くだらないことを聞くんじゃなかった、と後悔しながら、
女のような白く滑らかな肌を晒していく。
鍛えてはあるが、無駄に重い筋肉は付いておらず、豹のようにしなやかなラインを描く身体。
女性のもつ柔らかさと劣情をそそられる豊満な胸はない代わりに、
別の欲望が刺激される。即ち、同性を組み敷くという背徳的な行為に己を委ねることへの一種の優越感と、
普段の澄ました顔を歪ませ、快楽に狂わせ、堕ちた姿を見てみたいという、
純粋な嗜虐欲だ。
自分からこうなることを望んだくせに、慣れていない身体は羞恥に頬を染め、
白磁の肌を紅色に染め上げる深夜を見下ろして、グレンは、

「恥ずかしいのかよ?―――男のくせに」
「・・・っ―――、」

わざと羞恥を煽るように鼻で笑い、そうして一段と色濃く勃ち上がった胸元の飾りを摘み上げた。
小さいくせにひどく敏感なそこは、指の腹で弄るだけで簡単に快感を生み出すようだった。
噛み締めたはずの唇が解かれ、甘い吐息が漏れてくる。
もっと強く刺激を与えればどういう反応を示すのか、くだらない興味を引かれて、
グレンは片方の蕾を指で弄びながら、もう片方のそれに舌を絡めた。

「や、め・・・っ」

唾液でそこをたっぷりと濡らし、歯を立て、痛みを覚えるほど噛んだと思えば、
宥めるように舌を這わせる。
蠢く彼の黒髪の頭がどうにもくすぐったい上に、容赦のない鋭い刺激がひどく堪え難くて、
深夜はなんとか彼から逃れようと髪を引っ張り、肩を押しのけようとするが、
既に力が入らない。
こんなことをされた経験などなかったし、
想像していたよりもそれは遙かに麻薬めいた酩酊感を与えるもので、
愕然とする。
これほどまでに、抵抗できないものだとは思わなかったのだ。
だが、奇しくもグレンも、同じことを考えていた。
自分の行為に明らかに乱れる様を見せる彼を見下ろしながら、下肢の奥で、疼くような欲望を覚える。
だが、今の状況は、完全に鬼の思うつぼではないのか、と。
頭の片隅では、理性が警鐘を鳴らしている。
これ以上進めば、本当に元には戻れなくなる、とわかる。
人間としての冷静な判断や正しさとは相容れない、動物的な、情動的な欲望に惑わされ、
理性を見失い、ただの獣に成り下がるのだ。
鬼は嬉々として、自制心を失った己を乗っ取りにくるだろう。
わかっている。
わかっているはずなのに、だがそれでも、自分の身体は引くことを知らない。
まるで、何かに突き動かされているかのようだ。
あの時のように、心でいくら叫んでも自由が利かなかった己のように、
―――それでも、

「欲しい」
「痛っ―――・・・」

ざり、と音がして、気付けば肌に爪が立てられていた。
白の上に、朱線が刻まれる。血が、溢れる。じわりと滲み、直ぐに雫となって流れる鮮やかなそれを、

「グレ、」

舌が舐めとる。愛おしげに傷を唾液で濡らし、何度もキスを与え、
そうしてまた悪戯な爪先が新たな朱線を刻む。血が溢れる。舐めとる。その繰り返しだ。
恍惚の表情で肌に痕をつけようとする男に、深夜は恐怖すら覚えた。
ふと、彼が顔を上げた。
鬼は―――、グレンは、あの時のように目を真っ黒に染めてはいなかった。
これほど狂気に満ちた行動を取っていながら、
瞳の色は変わらず、理性的な光が灯っていた。深夜は安堵すると共に、ぞくりと背筋を震わせる。
それが、どんな感情から来るのか、恐怖なのか、期待なのか、欲望なのか、
彼自身にすらわからなかった。
ただ、目を離せなかった。男の表情に、心を奪われていた。

「・・・・・・血が美味いとか、初めて思った」
「・・・重症でしょ、それ」
「ああ。多分、やばいな」

紡いだ言葉とは裏腹に、口元に妖しい笑みが浮かぶ。
確かに目の前の男はグレンだ。決して、鬼に主導権を握られた暴走した彼ではない。
なのに、これほど感情を露わにした彼を見るのは初めてで、
ひどく魅力的に映った。
狂わされる。
ボトムに手を掛けられて、少しだけ、戸惑う。
だが、躊躇している場合ではなかった。
有無を言わさぬ腕が、自分の抵抗の前に強引に両足から纏う布地を取り去ってしまったからだ。
下着など、既に意味を成さない。
若い少年の雄は、彼の心の中の情欲を如実に表していて、
とっくに天を向いていた。
張りつめているそれに、そろりと指を絡められる。
んぁ、と自分でも聞いたことのない甘い声音が口元から漏れる。

「もう、こんなにしてんのか」
「うるさい」

最後の意地を振り絞って、震える手を伸ばし、グレンの下肢に触れる。
布越しではあったが、こちらも十分すぎるほど硬く張りつめているのがわかり、
深夜は更に墓穴を掘る羽目になる。
自分に欲情してこんなにしているのだと思うと、
男としては、何とも複雑な気分だ。
この関係は自分から望んだとはいえ、素直に喜べないものがあった。

「・・・はは・・・グレンって、僕のこと、こんな、風に思ってたの?」

男に欲情するとか、変態だろ、と途切れ途切れに言葉を紡ぐ少年に対して、
グレンは可笑しそうに笑った。手の中のそれは、既に体液にぬめり、ゆるゆると動かすだけで
深夜は耐え難い、といった風に首を揺らす。
快楽に溺れているのは、一体どちらなのだろう、と思う。
自分が深夜に欲情する以上に、深夜はグレンの与える快楽に身を委ね切っていて、
これでは本当に、獣が本能のままに身体を貪りあっている様ではないか。
こんな状況で、理性など役に立たないことくらい、
グレンにはわかっていた。
意味がないことだった。後悔も、既に遅い。
手の内に収めた熱は更に熱さを増し、達きたいと訴えていた。
ぐり、と親指で鈴口に爪を立ててやるだけで、あっけなく彼の雄は解放された。

「う・・・ぁ、ああっ・・・」

びくびくと身体を痙攣させて、男の手の中に白い飛沫を放つ。
自分以外の存在の手で達かされる感覚は強烈で、
頭の中が真っ白に染まる。グレンの手で達かされた事実と、彼の目の前でその姿を晒してしまった羞恥とで、
わけがわからないくらいに動揺する。
無意識に彼の腕から逃れようと腰を浮かそうとすると、
それ以上の力で腰を掴まれ、引き寄せられた。
無言で腰を捕えたまま、更に両膝を折り曲げさせられ、拓かされる。
その行動は、明らかにこの先の意図を感じさせるもので、

「グ、レン・・・それ、正気?」
「正気もなにも、こうなった時点で、覚悟していたことだろ」

正論すぎて、言葉がでない。
頬がこれ以上ないほど熱く、顔が火を噴きそうに真っ赤なことは、深夜にもわかっていた。
男同士が身体を繋げる―――となれば、当然、こうなることは必至で。
わかっているつもりだった。覚悟だってしていたつもりだ。
だが、いざこの状況下にあって、
グレンの手が己のベルトを緩め、自分の目の前に晒した時、
一気に恐怖心が湧きあがってしまった。
無理だ。明らかに。
女ではないのだ。女のように、アレを受け入れる器官なんてどこにもないのだ。
ましてや、初めてである。
童貞を失う前に後ろの処女を失うとか・・・冗談ではない。
まさに、冗談ではない状況が自分に迫ってきていて、

「―――待て・・・って。まじかよ」
「はぁ?今更何怖気づいてんだよ。それでも男か?」

そういう問題ではない。
そういう問題ではないのに、グレンは先ほどからひどく流暢に言葉を紡いでいて、
逆にそれが怖い。
こいつは、自分の欲望を叶えることに、吹っ切れてしまったのだろうか?
あれだけ、理性で己を律していた彼が。
こんな低俗な欲になど、見向きもしないような顔をしていた彼が。

「おまえ・・・
 野心はどうしたんだよ!?その野心を叶えるために、くだらない欲は犠牲にしたんだろ!?」
「お前1人くらい壊したって俺になんの関係ないしなぁ」
「なんだよそれ!仲間だろ!薄情者!!」
「五月蠅い」

鬱陶しい口を押さえ、身体をひっくり返す。暴れ出そうとする少年の頭を掴み、枕に押し付ける。
未だに肌蹴たシャツは腕に絡まったまま、背筋はしなやかに伸び、
下肢はというと、グレンに捕われている。
尻に指が食い込むほど、ぐっと力を入れ、そうして、目当ての秘孔を晒す。
狭い。
慣らすべきだと頭の中ではわかっていたが、
どうにも下肢から湧き上がる欲望が、そんな余裕すら与えなかった。
潤滑油となるローションも、オイルも、ここにはない。
唯一、代わりになりそうなものといえば、
己自身から溢れる体液と、シーツにシミを作る深夜の精の残滓くらいなもので、

「っい、あっ・・・ばか・・・!」

盛大に非難する深夜には見向きもせず、彼の雄をぐっと握り締め、先走りと混じる精液を掬い取る。
更にシーツに残る、冷たくなった白濁をも指に絡めて、

「っう―――・・・」

指を、押し込んだ。
初めて、外部からの異物を受け入れたその部分はひどく狭く、
滑る精の助けもあって辛うじて指の1本は受け入れることができたが、
それでも、かなりの苦痛が伴った。
ましてや、今から受け入れるのは、あの、見るも恐ろしい、男の楔そのもので、

「いやぁ、本気で無理・・・絶対死ぬよ僕」
「本望だろ?お前さっき殺されたいとか言ってただろうが」
「嘘に決まってるだろばか!変態!鬼畜!ドS!」
「黙れ」

喚き散らした次の瞬間、耳元で囁かれた有無を言わさぬ迫力の声音と、
そうして、下肢に宛がわれた鉄のような熱塊に、
文字通り深夜は息を呑む。
本気で犯される―――わかっていたはずなのに、この恐怖心はどうすることもできなかった。
何しろ、初めてなのだ。
ぐっ、と体重をかけられて、引き裂かれるような痛みが下肢を襲った。
指に力を込めて、シーツを握り締める。歯を食いしばる。ただ痛みや苦しみを与える拷問に耐える訓練ならば、
幼い頃から積んできたはずだ。それを思えば、こんな痛みなど大したものではないはずだったが、
それでも、男の雄を無理矢理受け入れさせられ、強引な行為のせいで
切れたそこから血が流れる感触に、深夜は絶望的な気分だった。
痛みもそうだが、下肢を襲う圧迫感が、ひどく屈辱的だと思った。だがそれでいて、

「はは・・・ちゃんと全部はいったぞ?」
「・・・最悪・・・」

吐き気がするほどに、満たされた充足感が四肢を支配していた。
気持ちが悪い。自分すらよくわからないのに、それでも指先までが悦びに震えているようだった。
言葉を紡ごうとして、唇が震え、うまく言葉にならない。
空っぽだった自分の心が綺麗に埋まったような、そんな感覚。
今まで、感じたこともなかった。
男は自分の中に己のすべてを収めたまま、しばらく動こうとはしなかったから、
深夜はようやくゆっくりと息を吐いて、そうして改めて繋がったままの下肢に意識を戻した。
おそらく、かなり無理をしている。
力を抜いて、なんとかわだかまる違和感を解消しようとして、しかし、
ぐっと奥を貫かれ、不意打ちに声が漏れてしまった。
唇を噛み締めて抑えようとするが、不可能に近かった。少しだけ腰を引いて、また奥を抉るように突き上げられると、
痛みよりも深く染み入るような重い快楽が溢れてくる。

「っあ、あ、あっ・・・!」
「気持ちいいのか?」
「んなわけ・・・」

ないだろ、と言うより先に、ひときわ大きく鼻にかかった声音が漏れる。
ようやく柔軟になり始めている内部は、グレンの与える刺激から快感をしっかりと拾い上げていて、
深夜は愕然と背後の男を見上げる。
彼もまた、初めて経験する“男”の中の感触に、ひどく追い詰められているようだった。
先ほどまでの余裕が、まったく見られなかった。
鬼に暴走させられている時のような、鬼気迫るような表情。
額に滲む汗が、深夜の背にぱたりと落ちる。
ちらりとその表情を見ただけで、深夜は諦めたように身体の力を抜いてしまった。
それは、諦めだった。
これは、彼を欲しいと望み、そうして叶えてしまった自分への、罰。

「・・・いいよ。達っても」
「・・・深夜」
「もう、どうにでもなれ、って感じ?」

自嘲するように笑って、そうして目を閉じる。
するりと下肢の前に手が伸びてきて、痛みに萎えかけたそれを捕える。
直接的な鋭い刺激は、下肢の奥から響くような深い快楽とはまったく違い、脳みそを直接かき回されるようだ。
自分が壊れていくのを、自覚した。
文字通り、グレンは自分を完全に壊してしまった。
なけなしの自我も、理性もなくなって、果たして今の自分に何が残っているのだろう?
霞んだ視界にぼんやりと浮かぶのは、こちらも完全に理性を失った、獣の顔。
強い光を湛えたその瞳は、いつだって自分をまっすぐに貫いていた。
今もまた、それは変わらず、自分だけに向けられていて。

(まぁ・・・これも、いいか)

少しだけ、笑ってみせる。
先ほどの余裕の残った笑みとは違い、それはひどくぎこちないものだったけれど。
グレンはそれに気づいたのか、こちらも少しだけ口元を歪ませ、
そうして、憔悴しきった彼の頬に、唇を落としてくる。

繋がったままの下肢は、蕩けそうに熱かった。
痛みと、熱と、快楽に浮かされ、深夜は意識を手放した。










「・・・・・・・・・痛い。」

布団に包まりながら、深夜は腰の奥の痛みに不満を洩らした。
もう10月である。残暑も既に終わり、朝晩の冷えはかなりのものである。
今は4時。
意識を手放してから、既に2、3時間が経っていた。
初めてとはいえ、まさか自分が無防備な姿を晒したまま眠りこけるとは思っていなかった深夜は、
ひどく屈辱的な思いで、隣の澄ました顔の男を見やった。

「・・・ほんと鬼だよね。本気で死ぬかと思った」
「死ぬわけねぇだろ」

手足の1、2本落とされたところで死ねる身体でもないくせに、と
グレンは鼻で笑い飛ばした。
この、憑き物が落ちたような、文字通りすっきりした男の気配といったらどうだろう。
非常に腹立たしかった。一発ぶん殴ってやりたいと思ったのだが、
身体がまず思うように動かない。
ベッドの端に座り、冷蔵庫から持ってきたらしいコーラを飲んでいるグレンのシャツの裾を、
深夜は恨めし気に引っ張った。

「ていうか、これからどうするのさ」
「あ?」

もう数時間もすれば朝なのだ。
学校は封鎖され、もう行く必要はないとはいえ、
今は暮人の指令書を待つ身だ。当然、いつものように美十も五士もやってくるだろう。
すぐにでも指令が届き、真昼を追って出撃する可能性だってある。
このまま寝こけている場合ではない。
それどころか、
深夜が部屋にいることが、彼の従者たちにバレてしまったら―――
真面目に半殺しにされそうだ。

「お前が1人で帰れば済むことだろうが」
「無理に決まってるだろ!」

深夜は唸った。そりゃ来たときのように万全の体勢ならば余裕で帰れるだろうが、
この状況では不可能に近かった。第一、まともに歩けないのだ。
出来ることなら、このまま眠って体力の回復に努めたいところなのだが

「・・・とっくに、バレてるよ」

そんな恐ろしいことを、グレンは何食わぬ顔で言ってきて、
深夜は石のように固まってしまった。
バレて・・・いた?
それでは、気付かれているのを知っていながら、こいつは自分を組み敷いたのか?

「俺の護衛も兼ねてる従者が、主の部屋に侵入した不審人物に気付かないわけないだろ」

彼女らは、決して無能などではない。
一瀬家の次期当主の護衛を務められるくらいには、優秀で、才に長けていて、
それは深夜も認めていることだったから、だからこそ、思考が止まる。
彼女らの心情を慮ると、昨日の今日で普段通りに顔を合わせるのは、いかな深夜でも勇気がなかった。

「ちなみに、最初から覗かれてたしな」
「・・・・・・はは。まじかよ」

・・・本気で死にたい。

「ま、当分ここで休んどけよ。
 五士たちには適当に言っておく。小百合たちにも部屋には近づかせない。
 ―――それでいいだろ」

有り難い話ではあったが、彼がこういう甘やかすような言葉を吐くのは見たことがなかったから、
深夜は不審げにグレンを見上げた。
彼は苦笑して、ぽすっと布団からはみ出す白髪に触れる。
なんとも悔しい限りだった。
やはり自分も男であるからか、従者2人のように甘やかされて喜ぶガラではない。
だというのに、どこか、安堵している自分を感じているのだ。
逃れられない、と思った。彼からは、決して。

「・・・罪な男だよね・・・」
「なんか言ったか?」

きらりと強い視線を閃かせる男を無視し、深夜はベッドの上でくるりと丸まる。
染みついた愛しい男の匂いがひどく心地よくて、
またしても上気しようとする頬を悟られぬように男に背を向けたのだった。





end.





Update:2014/10/11/SAT by BLUE

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