焔の所在。



―――ほんの少しの抵抗は、貴方自身を見失わせるだけ。





イシュヴァールの内乱後からずっと詰めてきた東方司令部を後にして、
ロイ・マスタングはセントラル・シティへと赴いた。
度重なる人手不足のせいだとも言えなくもないが、それにしても早い昇進を遂げてきた。
それはおそらく、自分の錬金術師としての能力を現軍事最高責任者キング・ブラッドレイ大総統がいたく気に入ったからだろう。
東部の統治に、支部ニューオプティンのハクロ少将を差し置いて自分がイーストシティにいられたのは、
考えなくともイシュヴァールの目付けにとあの場所を任されたからだ。
そして、あの時から6年の歳月を経て今、セントラル行きが現実となる。
ロイは自分に宛がわれた部屋へと到着すると、その整理を部下に任せ、自分は大総統の執務室へと足を運んだ。
軍の狗―――今はキング・ブラッドレイの狗としての、忠誠の証。
扉を叩くと、記憶と変わらない声が入室の許可を告げ、ロイは6年ぶりの大総統の部屋へ足を踏み入れる。
広い、東方司令部で自分がいた執務室とは比べ物にならない広さの部屋の窓際のデスクに、
大総統キング・ブラッドレイは居た。
最後に自分が見たときより、少しふけただろうか。しかし、そんなことはおくびにも出さずロイは右手を上げる。
形だけの忠誠には、もう慣れた。
敬礼と、真っ直ぐな瞳。それさえあれば、大抵の者はその忠誠心を疑わない。
ロイの目の前―といっても相当に距離があるが―のその最高権力者は、
書類にサインをしていた手を切りのいいところで止めると、がたり、と椅子を後ろにずらした。
静まり返った執務室。こつ、こつ、ブラッドレイの靴の音だけが響く。
合わされた視線は、外されることなく自分を見据えて。ロイはいつだってその瞳に束縛を感じる。
だが、それは強制された束縛ではない。
軍の中で最高責任者としての彼への不満をあまり聞かないのは、
この男が身に纏う飄々とした雰囲気のせいもあるだろう。
キング・ブラッドレイ大総統。常に人の上に立ちながら、その纏う空気はただ威圧的なだけではない。
確かに、人として惹かれる部分があるのだ、この男には。
そう、人間らしい―――人間らしさが。

「やっと、帰ってきてくれたな」
「ロイ・マスタング。閣下の命により、本日セントラルに参りました」

帰ってきてくれたというブラッドレイと、参りましたというロイの言葉は噛み合わない。それは微かな互いの意識のズレを表している。
すなわち、6年前、自分の元から離れたと思うブラッドレイと、
大総統の下から離されたと思うロイと。
だが、お互いにそのことはよくわかっている。要するに、責任の押し付け合いだ。
近くに居られない理由づけが、2人は欲しかったのだ。
ブラッドレイはロイの肩に手を置いて、彼の敬礼を降ろさせた。

「・・・来たまえ。君の好きだったコーヒーを淹れよう」
「・・・・・・は」

長居するつもりはなかったが、ロイは促されるままにソファへと導かれ、手には暖かなコーヒーを渡された。
このコーヒーはこの部屋でしか飲めない1級品だ。芳しい香りが部屋一杯に広がる。
ほどよい苦さと甘さが、美味しいと思った。ただ苦いのではない、どこか胸が痛くなるような苦さと、それを優しく包まれるような甘さだ。
他のどの種の豆でも、こうはいかない。
ただ、その感想はこの部屋でだから出てくるのであって、
例えば他の場所で同じものを飲んだとしてもロイは美味しいとは思わないだろう。
大総統キング・ブラッドレイ。彼がいてこその美味しさだ。

「君が行ってしまってから、何年が経ったかな」
「6、年です、閣下」
「そうか。・・・長い・・・長い年月だった」

同じコーヒーを飲みながら、ブラッドレイは同じようにソファに座り、同じように息をついた。
部下と、最高責任者。だが、空気は少しだけ違う。

「このセントラルで沢山の国家錬金術師や部下が死んでいった。だが・・・今はその人手不足が幸運にも思えてくるのだよ、マスタング君」
「・・・閣下。そのようなことは・・・」

友だった男も含めて、セントラルで死んだ者の中にはロイが知る者もいた。
彼らの死を幸運だとすら言ってのけるブラッドレイに、ロイは微かに顔を顰める。
けれど、幸か不幸かブラッドレイは気付かず、彼は胸元から1本の葉巻を取り出した。
普段、そのようなものを吸う男ではないことを、ロイは知っている。
いや、6年も経てば人は変わるものだが、それでもロイは確信していた。
この男が煙草を吸う時は、目的が決まっている。

「火を」

そして、案の定ブラッドレイはロイの予想通りの言葉を口にした。
火を。それは焔の錬金術師ロイ・マスタングにとって特別な言葉。微かに心に動揺が走る。

「・・・点けて、くれんかね」

渇いた口内を感じて、唾を呑み込む。
ロイは、ゆっくりとした仕草でポケットに入れていた手袋を取り出した。
焔の錬金術師。その名に恥じない能力の源は、この手袋の甲に描かれた錬成陣。
発火布でできたそれをぱちりと擦れば、ちり、と微かな音がして火花が散った。次の瞬間、ブラッドレイの指に挟まれた葉巻が、じり、と焼けた音を立てる。
その様子にブラッドレイは小さく口の端を持ち上げ、ロイは至って無表情ではめていた手袋を外しポケットに入れ直した。

「さすがだな」
「いえ・・・それほどのことでは・・・」

大総統の言葉を控えめに否定しようとして、不意に手首を掴まれる。先ほどまで錬成陣つきの手袋をはめていた―――右手。
ブラッドレイの、節くれだった指先が触れる。
ロイは一瞬その手を引こうとしたが、相手は自分以上に権力も、力もある男。そして何より、今の自分は抵抗などできない。してはいけないのだ。
そのまま唐突に重ねられる唇に、ロイはびくりと身を強張らせたまま―――・・・
懐かしい。確かにそう思った。
触れるだけのそれは、すぐに離される。けれど、距離はさほど変わらない。互いの吐息が触れる位置で、ブラッドレイはロイの顔を覗き込んだまま言った。

「違うよ、ロイ・マスタング。君が―――・・・、だ」

フルネームで自分の名呼ばれ、無意識のうちに息があがる。
久しぶりに聞いた。その声音。その呼び方。
自分を本名で呼ぶ者すら少ないのに、フルネームで呼ぶ者などいるわけがない。
だというのに、この男は平気でその名を呼ぶ。意識もせずに胸が熱くなるのを、ロイは止められなかった。
ただ、子供ではない。それを表面に出さないくらいの自制心は持ち合わせている。
背をソファの背もたれに押し付けられ、それでもロイは冷静を保ったままブラッドレイを見上げる。
彼の腕が自分の腰に回されることに、内心ひどく感じる自分がいた。
だが、それは期待からではない。
男の纏う昏い―――・・・底知れない闇に触れ、恐怖に似た震えを覚えるのだ。
全てを見透かされている。そんな気にさせる瞳。
そして、事実、彼の心はすべて見透かされていた。

「君は、そんな力を持っているのに、どうして私に振るおうとせんのだ?」
「・・・そ、れは―――・・・」
「君の心は告げているはずだ。この手で、全てを燃やしてしまえばいいのだと」

そう、彼が望まないもの全てを。
巨大な力を持つものは、必ず暴走する。それは、その力でもって全てを手にすることができるからだ。
ロイが欲しがるもの―――その大総統の地位を、彼は強引に奪える位置にいる。
かの男の前で、自分の力の源となる発火布を纏い、
かの男の目の前でその火花を散らす。
人を一瞬で消し炭にしてしまえるほどの彼ならば、簡単にできるはずだ。
たった2人だけの部屋。
誰も知らない。秘密めいた会合。ロイは部下達に大総統に会いに行くとは言っていなかった。
そして、ブラッドレイもまた、ロイの入室を誰に告げるわけでもない、予定を立てていたわけでもないのだ。
ロイならば、その気になればブラッドレイを殺すことができる。
だから、ロイはあの時微かに動揺した。
ブラッドレイの目の前で、錬成を行うこと。それは、自らの意志だけで全てが行える瞬間。
殺人兵器としての自分。この手が今まで何人の人間を死に追いやっただろう。
焔の錬金術師としての巨大な力は、何かがなければほとんど意味をなさない。
すなわち、事件、暴動、反乱、テロ、そういう穏やかでないところにばかり、自分駆り出される。
決して、こんな煙草の火ごときを点けるために存在する力ではないのだ。
もっと、大きな。もっと、激しい焔を、ロイは抱く。
ブラッドレイはそれを指摘し、ロイに突きつけた。彼の内なる焔を、私に向ければいいではないかと。
喉が渇いた。もう、唾を飲み込むこともできない。掠れた声しか出せなくなる。

「・・っ大、総統・・・閣下・・・」
「ふふ・・・だから、私は君を手放せないのだよ・・・」

ブラッドレイはロイの顎を上向かせ、露になった白い喉笛に歯を立てた。
いつでも殺せるのは自分のほうだという微かな主張。それを敏感に感じ取りロイは回した手を握り締める。
ブラッドレイの前で、ロイは常に狗だった。
胸に野望の焔を点していながら、誰よりも狗だった。そんな狡猾さを野生のそれは持っていたはずだ。
ロイは常にその地位を狙う。ブラッドレイはその野心を知り、なお彼を傍に置く。
だが、ロイが狗であるが故に、ブラッドレイは傍に置く気になったのだ。
狗は、一度上と認めたものを食い殺すことはしない。
ただ従順に、だが常に彼の男の失墜を夢見る。
自ら引き摺り降ろさず、彼が堕ちた後のその空白を狙うだけ。
ならば、常に自分がこの場所に立っていれば。
ロイ・マスタングという強力な狗が手に入るのではないか。
強力な。そう、世界中全てを焼き滅ぼせるほどの力の持ち主。1つ間違えば火傷をしそうなほどの危うい関係。
だが、ブラッドレイもまた巨大な力を持つ故の自信家だ。
大火傷をするヘマはしない。常にロイという狗の前で、飼い主の顔をしてみせる。
ブラッドレイはロイの軍服も白いシャツも肌蹴させ、露になった滑らかな肌を掌で撫ぜた。

「閣下・・・、おたわむれを・・・」
「戯れなどではない。・・・―――私は本気だよ、マスタング」

6年間、放置せざるを得なかった狗は、鎖につながれてもいないくせに逃げることはなかった。
それどころか。
今、帰って、こうして腕の中にいる。
今、こうしてロイという誰よりも従順な狗の存在を感じている。
たとえ将来、この狗が自分の地位についたとしても構わなかった。自分が生きて居る限り、ロイは自分の狗だった。

「君も、そう思ってくれているのだろう・・・うん・・・?」

でなければ、こうして戻ってこないだろうと。
それとも、身体を繋げば大総統の地位が近くなると?残念だが、まだ私はこの地位を手離す気はないよ。
君を傍に置くのが飽きるまで。ずっと大総統で居続けてやろう。
ずっと私の下で啼きなさい。君の地位は保証しよう。
ロイ・マスタング。焔の錬金術師―――・・・・・・その焔は永遠に、私のものだ。

「さぁ、応えてみせよ。―――君は、私の、何だね?」
「・・・っ・・・わ、私は・・・」

胸元の突起に歯を立てて。仰け反る体を、ブラッドレイは支える。
背に回された腕がしがみつくように力が篭る様に、彼は口元をゆがめる。
ボトムの前までを開け放たれたそこは、直接的な刺激は何もないというのにもう自己主張をしていた。
手で包み込むように握り締めると、びくりと身体が反応し、そして瞳が揺れる。
夜を映し込んだような闇色は、まるで黒曜石のような輝きを放っていた。
生理的な涙が瞳を濡らす様を、しっかりと眺めて。

「私は・・・閣下の・・・・・・」

所在なげに彷徨う瞳を、強引に捕らえて。逸らすことを許さない。射抜かれ、囚われる感覚が、ロイの全身を貫く。
鎖の形をしていない強力な呪縛はロイの心を完全に縛っていた。
本人すら、気付かせないまま。
震える唇に、ブラッドレイは軽く唇を重ねた。

「私は、貴方の・・・狗、です」
「そう、狗だ・・・永遠に、な・・・」

腕の中の狗は、その言葉に納得できなかったかもしれない。
けれど、今はどうでもいいことだ。
屈辱的な言葉を強要し、それを過去と同じように応えたロイ。
多分、また6年後も、同じ言葉を聞かせてくれることだろう。ブラッドレイはその確信に笑みを浮かべた。

「閣下・・・私は―――・・・っう・・・」

唇を奪う。今度こそ深く、深く舌を絡める。
濡れた吐息と、熱に浮かされた部屋に甘い声が漏れる。
ブラッドレイの愛撫を受けながら、ロイは見えないところで血が出るほど唇を噛み締めていた。







Update:2004/03/07/SAT by BLUE

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